達成感

誰かや何かを恨む時間に慣れすぎると、それらを失う時は自分の一部も失われるような気になる。いや、もっと言えば「自分でなくなってしまう」感覚になる。いくら『恨みの念を持ったまま幸せにはなれない』と言われようと、人が変われないのにはそんな理由もあるのだと思います。良くも悪くも変化は怖いものだから。

私は自己愛達だけではなく、親・家族を含めここにツラツラと書いてきた難アリの人達に対しても、許しとは違う「どうでもいい」という気持ちになりつつある。文字通り相手を許す、または良い経験になったと肯定的に捉える必要なんてない。自然とそうなるのなら、それはそれでいいことだけど、無理やりに感情を封じ込めなくても赦しの道はあります。

Iさんと出会ってから3年半が経つ。この期間が短いのか長いのかはわかりませんけど、とにかく人は何歳になっても変われるのは事実だ。今の私にとって似非弱者は「変わる選択をしなかった人」であり、「変わらない選択をした人」でもある。潜在意識の世界は究極の自己責任だから、自分が選択した結末は自分で背負わなければならない。

悪いのは相手なのにどうして自分が変わらなければならない?とか悠長なことを言っていられる時間はなかったのです。変わらなくてもいいけれど、「いつか誰かが」という期待は裏切られると思っておいた方がいい。あわよくばそうなる可能性もなきにしもあらず、しかしその保証など誰もできない。反対に「自分」は絶対、確実。最短で幸せになる方法でした。

私が今、自己愛達に対して持っている気持ち。「私はあなた方によって幸せにも不幸にもなれない」と思っている。仮に再びパワハラが始まっても私はきっと不幸にはならない。逆に認めてもらおうと賞賛されようと幸せにもならない。あなた方の一切は私の幸せに何の影響も齎さないということです。

皆が幸せになる世界ってきっとある。あるけど、それは皆が精神的な自立を果たしていなければ成し得ないんじゃないかな。「自分たち(弱者)の気持ちも考えろ」と脅迫まがいに主張し、自分たちは向上する気はないが、こっちのレベルまで下りてこいなどと望む人間が「自分は正しい」と信じてたりするのだから、もうなにがなんだか。

うっかり無意識に流されて生きていると、負のパワーだけは強いそれらに巻き込まれるよ。私は小さなコミュニティの中で足を引っ張られて生きてきたけど、視点を上げると国民全体でそれが行われている。同情や共感という甘い罠で誘い、強者を悪者に仕立てあげて引き摺り下ろそうとしている。

考えなしに生きている人間はあっさりとこの罠に引っ掛かる。「〇〇さんって本当はこんな人らしいよ」「だから関わっちゃダメだよ」そういって仲間に引っ張り込む。自信のない人間はそんな方法でしか関心を引くことができないからだ。小学生低学年のするような程度の低いやり口に疑問を感じないのか。

何も持たない私がそれらに融合せず生きていくには「自分で自分を幸せにできる」能力を持つしか手段がなかったのです。外部に自分の幸せをコントロールさせないこと=自分の幸せを外部に委ねないこと、だったのだ。「大切なもの」とは幸せである一定の条件だったりもする。それを持たずして幸せになれることこそ「幸せ」なのかも知れないと、今は思うよ。

幸せなんてもう、求めなくていいんだ。そんなものは、ただの「刺激」だ。(詭弁氏)

ずっと書いているように、ここに至るまでは決して簡単な道のりではありませんでした。手近な誰かに縋ればどんなに楽だっただろう。だけどそれでは意味がない。自分を背負う力がなければ元の木阿弥になるからだ。私はやっと「自分の人生は自分で背負え」と似非弱者を切り捨てられる、理想の自分になれたのかも知れない。

達成感。