冒涜

参議院選挙の前、いま国会を揺るがしているらしいY氏の政見放送youtubeで見ていた。ネット上で話題になっていた割に、私は全く共感もできず何の感銘も受けなかったので途中で飽きてしまいました。しかし氏を支持するというおびたたしい数のコメントの中に強烈なインパクトのあるものを見つけた。

それは、うろ覚えだけど「貧しくてもいいから格差のない社会にして欲しい」というような内容だった。コメ主はおそらく今も貧しさを感じているのだろう。しかし貧しさそのものが耐えられないのではなく、一方で豊かな人がいることが許せないんだと感じました。

私はそんな時つい、以前の私ならコメ主の言葉に納得しただろうかと、自分の現在地を確認してしまう。今の私には何を言っているのかさっぱり理解できない。もちろん格差がないほうがいいのかも知れないけれど、貧しさに許可を出せているのなら、その不満はないも同然なのでは。

客観的に見ると、今の社会が許せないのは豊かさと比較するからなのであって、逆に言えば比較しなければ今のままで幸せに暮らせるポテンシャルを秘めているということです。

私は幼い頃から、弱者のふりをした強者が優遇される格差に不満を感じていた。似非弱者が恵まれる陰で、それを支えなければいけない自分を被害者だと思っていた。今もその構図は変わっていないけれど、不満を感じることはほとんどなくなった。頑張っている自分の方が優遇されてしかるべきという気持ちが失せたからです。

このブログを始めて2年が過ぎましたが、やってる事は変わらない。でも頑張ってもいないので優遇される理由がありません。そして私は似非弱者を不自由な人だと思っているから、誰かが理解してあげないとダメなのかも知れないと考え始めている。ただそれは私の仕事じゃないだけで。

私は他者に理解してもらおうと思わないので、私にも求めないでもらいたい。理解するかどうかは私が決めることで強要されるものじゃないんだよ。そもそも、そういう人と関わりたくもないので他を当たってくれ、と思っている。

自分が変わると世界が変わるというのは、焦点がずれるという意味なのだろう。先に書いたコメ主は貧しさを恨み、それをもたらしている社会に不満を持っている限り、無意識にそこへ焦点を合わせているはずだ。自身の生活、そして対象となる豊かな人を常に意識しながら生きているのだから、その人にとっての世界は暗闇に見えて当たり前です。

かくいう私も社会に不満を持っておかしくない側の人間なのだけど、精神的に貧困とは無縁だから焦点が合わない。ついでに、もう毒親育ちというレッテルは要らないので、たまたま目にしても心が動くことはありません。

自分がこうなってみて、ようやく”世界は自分で創っている”のだと確信できるようになったので、他人に対しても感情移入することがとても少なくなった。無意識の領域に流されるまま生きるのは自分への冒涜だと思う。究極の自己責任。