平等

相変わらず仕事が忙しいです。私はこれまである種の人達に気を使いながら仕事をしてきましたが、もうやめた。そして私は本当にもう会社を辞める決心がついたのだと思いました。会社に居続ける為に気を使ってきたのだから、気を使わなくなったというのはそういうことなんだろうと。

私は忙しくなればなるほど冷静になる。テンパって思考停止すれば仕事が回らないからです。この状況はイレギュラーな出来事に弱い自己愛にとって厳しいものだから、今回ばかりはさすがに口出しもせず、自分から私のアシストをしている。そして変わらず邪魔をする共依存を阻止する動きさえ見られるのが驚き。

果たして努力は報われるのか否か。報われるというと問われるのは結果だと思う。その結果とは賞賛か報酬か?私は賞賛はいらないし、報酬は今の場所では厳しいと考えている。ただ誰にも引け目を感じずに済むのは確かだ。私は他人に「どうぞ」と力を与えて貰ったのではありません。私の力は私が積み重ねたものだから。

私は今の会社だけでなく、これまでずっと誰かに気を使いながら仕事をしている。求められるままに仕事をこなせば必ず上から杭を打たれるか、下から足を引っ張られる。そんなの楽しくなくて当たり前だよね。ここ最近、人生で初めて営業って楽しいと思いました。

ある種の人に認められたいがために頑張って営業をしてきて、その目的がなくなったからだろうか。もはや売り上げもどうでもいいし、先日も書いたけど会社のために働いてるわけではない。私に「会いたい」と言ってくれる人、私を待ってくれている人が喜んでくれればそれでいい。誰かがほんの少しでも幸せになってくれればいいじゃん。

 

話しは変わりますが、平等について。かのニーチェも平等性は幻想だと言っているし、私もそう考えている。私の場合だと、どうして毒親の元に生まれたのか?経済的にも人間性も豊かな家に生まれなかったのは平等ではない、という思考を持っていた。今、それについては「どうしようもないでしょ」としか言葉がでてこない。

平等が通用するのは、同等の条件下の元で且つ変えられるものである場合だけだと思っている。親は子供を選べないし、子供は親を選べない。出生前診断とかもあるけれど、それとは別の次元の話で。とにかく変えようのない事実を不平等だと嘆くのは無意味すぎる。諦めでも悟りでもなく、下らないのだ。

とかく似非弱者は平等を声高に叫び、最近は特にその傾向が強いけれど、私はそれらを冷ややかに見ている。なぜにあなたたちは好き好んで弱者を選んでいるのか、差別されることにメリットを見出しているのだと気付かないのか。でもそれを言った所で、精神論イラネとお怒りになるだけだろう。

確かに精神論は役に立たないのかも知れません。だけど平等を求めたところで絶対に手に入らないんだけど。それは永久に変わらないのだから、たとえ1%でも変わる可能性がある精神論の方が理にかなっていると私は思っている。それにしても平等ってすごくいい響きだ。優遇しろと言えば狡さを隠し切れないけれど、平等って言い換えるだけで正しそうに聞こえるもの。

なんにしたって優遇されるのは数が少ないからだ。そこへ我も我もと群がればあっという間に過剰になる。プラスの性質を持つものでも増えすぎれば普通になり、その中で格差が生まれる。マイナスの性質を持つものが増えれば同様に格差が生まれ、更に冷遇されるだろう。

皮肉なことに私は今の世の中を見て、改めて潜在意識は世界を作っているんだと感じています。同じ条件下にいながらとんでもなく苦痛に満ちた世界に生きてる人と日々感謝をしながら生きている人は何が違うのか。

私達は現実を見ていない。本当は目に見える世界を通じて自分の心を見ているのだと思えて仕方がありません。不平等への不満から平等を求めるということは、不平等から抜け出さない決意の表れでもあるんでね。