過去を生きる人

1月27日、新型コロナウイルスによる死者、トルコだったか遠い国の地震による死者の数を見て「やたらに人が死んでるな」と、ふと思いました。そしてあの日は全国的に天気が荒れていたせいか、地球のエネルギーが変化しているように感じた。嫌な予感、胸がざわつくような違和感を覚えたのです。頭に浮かんだのは「口減らし」という言葉。

明朝、ワタシ地方は前日の天気が嘘のように晴れ上がった綺麗な青空で、「あぁ、昨日の違和感は勘違いだったのかも知れない」とも思ったのですが、そのコントラストは『破壊と再生』を意味しているようにも見えて。その答えはまだわからない。そんな中でもここは他人の下半身事情で裁判官気取りになってる人が溢れていた。平和の証なんだろうか。

私は人生でかなりの時間を、過去を呪うことだけに使ってきた。その間も過去を起因とする様々な問題と戦いながらだ。それらがかなり昇華されてきた今、あれは一体何だったんだろうと思っている。いま私には何もない。他人のことを考える時間は激減したし、頭を悩ませる問題もない。

頑張ってこなすほどの仕事もなく、空いた時間はネットとパソコンゲームに勤しむ。私は相変わらず自己愛に挨拶はしないが、彼はたまにしてくる。流石にその時は返すようにはしています。先日、有休申請をした際、飛び石だったので共依存者から「飛び石だけどいいの?」と聞かれた。「…!?」用事がなくても休んでいいっぽい。なんだ、このVIP待遇。

手に入らない何かを追いかけて生きてきた私は、この環境に慣れるまで少々の時間を要した。これは向上と言えるのか、それとも堕落しているだけなんだろうかと、気持ちの置き場に困っていたのですが、最終的に考えるのが面倒になって、どっちでもいいかと思うようになり今に至っている。

しかし自己愛達から受けた仕打ちとパワハラを許したわけではありません。だからこそ強気なのだけど。かといって恨んでいるかというとそうでもなく、とりあえず「いま私が幸せならそれでよい」って感じ。彼等は改心した(かどうかは不明だけども)のだから過去は水に流そう、とかいう善の心もない。彼らの心に興味なんぞ持てません。

彼らだけに限らず、過去の出来事をふと思い出すときも勿論あります。でもそう長くは続かず、なんか飽きてくる。で「どうでもいいわ」って我に返ります。そうすると必然的に今にいる時間が長くなる。飽きてくるというのがミソで、私の潜在意識はそこに価値を見出せなくなってる証拠だ。良い傾向である。

私はもう「過去を生きる人」と生きていけないような気がする。