凍る

著名人の死にネットは再び騒然としているが、私は違和感しか感じない。「まさか」「どうして」所詮、他人事である。読んで字の如く『明日は我が身』なのに、自分だけは自分の周りだけは違うとどこかで思っているから。

私は3月の上旬に”私は新型コロナに感染して道でバッタリ倒れ、最悪そのままこの世を去ることを随分前から覚悟している”と書いている。1月から武漢の様子を見ている人なら、何を意味しているかわかるはずだ。にもかかわらず、当時の日本は休業補償の話題で持ち切りだった。

幸か不幸か日本は軽症の傾向が高く、重症者数・死者数共に他国より少なかったため、「上手く対処できているはず」だと、いとも簡単に数字に騙されたのです。クラスターという言葉を定着させた大阪のライブハウスのクラスター源とされた方についても、感染を拡大させたことばかりがクローズアップされていたけども。仮にその方が感染源だったとして、そもそもどこで感染したのかという事のほうが問題ではないのか。

無症状・無自覚のままで人が動き、市中感染が拡大すれば、どこで感染したのかはもはや意味がない。病院に来る面会者・付き添い・他の病気で通院する人、誰が感染していてもおかしくないのです。病院が閉鎖になったと聞けば「検査希望者が押し掛けたから」=「検査は医療崩壊に繋がる」のだと考えられる短絡的な人は幸せだな、と思っていた。

 

数年前、うちの会社に納品しているメーカーA社の営業所長が大きなクレームを引き起こしたのを思い出した。同じ商品を納めている会社は数社あり、ある時期までは万遍なく使うようにしていた。しかし他部門から配置転換されたB社の営業が仕事デキル男だったので、次第に発注はそこへ偏り始めたのです。もちろんうちの会社だけではない。

長年のよしみとでもいうのか、それまで”なぁなぁ”で上がっていたA社の売上は激減し、焦った所長が大口の発注をもらえるよう自ら頭を下げにきた。そこまでするのなら、と自己愛は渋々承諾したのだけども、結局生産が追い付かず納期には間に合わなかったのでした。納められた商品も完成品ではなく、最後はこちらで仕上げたというお粗末さ。

ちなみにA社の厳しい状況を耳にしたB社のデキ男は、自社の商品をA社に納める提案をしている。同業者だからできること。顧客である我が社、その先にいる発注元を思えばこそである。が、彼の提案を所長はあっさり蹴ったらしい。会社の考え方なのか、自身のプライドなのか知らんけど、どっちにしても最低ですね。その取引を最後に、所長は退職した。

なぜ大丈夫でないとわかっていながら大丈夫と言い切る人は存在するのか。ダメならダメでいい、ダメだとわかった時点でなぜ方向転換しないのか。守りたいものはなんだ?私はこの所長タイプの人間が大嫌いです。「できると思った」という言い訳をする人も、間違いを認めない人も。

心が凍っていきますね。