『絶対』はない

前の日記からしれっと3週間が過ぎてますが、私はこの間ひたすら新型コロナに関する日本の動きを見ていた。国とかソーリとか県とか知事とか日本人とか。…まぁ予想通り、日本はこんな国なのです。約3週間前、日本の一部は絵に書いたワニで沸いていた。しかしそれから2週間程で一転、いきなり戦時中モードに突入である。一体なんなのか(呆)

私が住む市もクラスターが発生し、あっという間に感染者は増えていった。とはいえ検査数が少ないのだから感染者数など最初から全くあてにならない。それでも世の中は呑気に平常運転。以前も書いたけれど、私はコロナによって『最悪の場合、死』を覚悟している。だから普段はマスクも付けなかった。

とはいえ客先にマスクなしで訪問するのは体裁が悪いので、その時だけは付ける。だけど肝心の顧客は謎の無敵感を感じるほどノーガード。なんだか私の方が顧客を疑っているような気にさせられたものだ。ところが戦時中モードに突入してから、超厳戒態勢に切り替わると共に顧客の顔つきも厳しくなってイラつきが体に伝わってくるんですよねぇ。

嗚呼、楽しくないな。顧客だけじゃない、世間様はこの間まで余裕ぶちかましていたではないか。こっちは危機感なんかとっくの昔に通り過ぎている。ものすごい温度差。日本人特有なのかどうかは知らないが、とにかく危機感というのは目に見える数値に左右されるものなんだなと思う。「もう諦めて明るく生きようぜ!」と叫びたくなるけど、凹られそうだから言わない。

諦めるといってもヤケクソとは違う。いま私達には「生か死」の二択しかない。コロナに限らず本当は常にそうなのだけど、リアルに死を身近に感じやすい状況にある。喫煙者の私は死に近いのだろうか、それともアセンションしたとすれば生かされるのだろうか。どっちかわかりませんけど、死ぬ時はどう足掻いても死ぬのだから考えても仕方ないじゃないか。

そんなことより仮に生き残った時、どんな状態で生きているかという方がよほど問題である。おそらくコロナが収束する頃、多くの人は受け入れ難い現実を突き付けられることになると思う。これまでキラキラ輝いていたものが光を失うだろう。『絶対』を信じて手に入れた何かは、実に儚いものだったと知るだろう。『絶対』など最初からこの世にはないのだ。

私は。今の会社の人が好きだ。できることなら今のままで何一つ変わることなく収束を迎えたい。社員はもちろん、社員の家族も誰一人失うことなく普通の日常を取り戻したいと思っている。そのためには会社が生き残ってなければお話にならない。実際、私のいる業界は大丈夫かもと楽観視していたのが、形態の違う会社は厳しくなりそうな予感もチラホラ。

あんなに憎んでいた自己愛に、自ら望んで協力する形になるのが悔しい気もするけれど、それでも会社に潰れて欲しくはないんです。私は布マスクも補償もいらん。このまま穏やかに、何事もなかったかのように生活したい。たとえ世の中が戦時中でも、私の会社だけは令和を生きたいもんだ。その暁にはボーナス増えてたらもっと嬉しい。

もっともっと言えば、そうだなぁ…新型コロナに対する日本の対策として、布マスク2枚が配布された歴史が載った教科書を見るまで死にたくないかな(笑)