騙される人

アセンションと言われた日から1か月が経とうとしている。私はあれから新型コロナに翻弄される人達を見ていたせいで、潜在意識とかスピリチュアルな類のものから離れていた。もう疲れてしまったのかも知れない。そして今はコロナに翻弄される人達を見るのにも飽きてしまった。

このひと月の間に、長年付き合ってきた顧客の一人が二度と会えない人になるという出来事があり。私は彼がこの世を去ったと知った時、さして驚きもなく、悲しみとか辛さとかそういう感情は湧かなかった。闘病のために以前から代理の担当者が業務を担っており、そのまま私の顧客へとスライドして、ありふれた日常は続いていく。

顧客はあくまで顧客。プライベートで会うわけでもない人達とは必ずお別れがくる。定年だったり移動だったり退職だったり理由は様々だけど、生きたまま二度と会えないことと死によって会えないことと何が違うのか。辛さから逃れるための現実逃避ではなくて本気でわからない。この世を去ったらしい彼が、少し早めに定年退職したとしても状態は変わらないはずなのに。

だから私は志村氏の死にも心が動かなかった。幼い頃からテレビで見続けていた彼が、新型コロナで突然この世を去ったと聞いても、全く実感が湧かない。顧客も志村氏もどっちかというと好きな方だったから、無関心なわけではないのです。肉体の死はとても曖昧すぎて脳内で上手く処理ができないだけで。なんにせよ突然の死に動揺しないのはいいこと。

そんなことより、人間は他人の「死」に直面すると、途端に関心が高くなるのね。これまでさして興味のなかったもの、記憶の隅に追いやっていたものが「死」によって価値が上がることって多々あるでしょう。たとえば落ち目(すみません)になっていた人の死後、著作物の価格が高騰するとか、あの現象が私は昔から嫌いだ。本人にとって何の意味になる。

死がセンセーショナルなものなら、その勢いは更に増幅する。ただちょっと知っていただけの人が急に「惜しい人」になるし、これまでグループを構成するパーツと認識していたのが急に今でいう推しみたいな存在になり、にわかファンが世間に乗り遅れまいと感情を奮い立たせる。そして勝手に自分を重ね合わせて親近感を抱いたり共感したりする。

この国の人は「共感」が概ね好きだ。単なる愚痴に対して建設的な意見を述べてはいけない。そして「一体感」も好きな模様。共感するもの同士で共鳴しあい、一つに混ざり合うことが好きなのだ。

前回「…まぁ予想通り、日本はこんな国なのです」と書いたけれど、総合的に見た感じであって一部は違う。それは大阪です。「共感と一体感」を絶妙なタイミングで煽ってくるやり方には惚れ惚れする。計算しつくされたブーム。絵に書いたワニが失敗したのは人の心を舐めすぎたからだと考えている。感情を煽った分、損したと感じさせてはいけないのだ。

嘘でもいい。騙すなら最後まで騙し続けるのが最低限の思いやり。上手く騙すには相手をよく知らなければならない。無関心では絶対に詐欺師になれない。詐欺師は騙されたい人を見抜くと言いますが、厳密に言うと信じる対象が欲しい人達なのかも知れないな。人を動かせるのは金なんかじゃないんだよ。わかるかなエライ人。

決して大阪を動かす人達を批判しているわけでも、騙してると言いたいわけでもありません。むしろ感動しているし、関西に住んでいることを誇りに思っている(まんまと)