存在の意味

先日、大きな仕事がひと段落したので、自己愛の提案により会社が休みになるという出来事があり。

私の会社は業務部門がメインなのですが、私が入社した時からこんな考え方だったわけではありません。当時の自己愛から言わせれば「きた仕事をこなせばいいだけなのだから業務は楽」だそうで。人間は自分が基準。自らも業務をこなす自己愛にとっては、業務より営業の方が苦痛で辛いものだっただけだ。頭下げるのが嫌いだからね。

しかし業務より営業の方が上だなんて、とんでもない話である。もしも業務が無能だったら、営業は仕事を貰うためよりもクレームやトラブルの対応に奔走し、何の意味もなく頭を下げ続けなければならないのだ。経験がないからわからないんだろうが、そういう意味でいうと自己愛は部下に恵まれすぎている。私はそれが我慢ならなかった。

何事もなく仕事を遂行するのは当たり前と言えば当たり前。しかし当たり前でない人間はこの世に腐るほどいる。だから声を上げないのをいいことに、当たり前のことが出来る人達を見下したり蔑ろにするなんてあり得ないんだよ。営業は大変かも知れないが、顧客から直接感謝はされるだろう。なら業務の仕事を価値あるものにするのは誰なんだよ。

少数精鋭である業務の人達は滅多に有休を使わない。今回の休みはコロナとは関係なく、彼らへの労いの気持ちだったようだ。その心境の変化にも驚いたが、営業より先に彼らの方へ予定を聞いたと知った時、なんか報われた気がしました。営業だけ特別扱いすることに対して「それじゃイカンのだ」と暗に訴え続けてきてるので。

 

この休みというのも最初は2日間(土日含めて4連休)の提案だったらしいのだけど、次の仕事の段取りかなんかでどうしても金曜日は休めなかった人がいたそうで。「それなら全員出社しよう」という業務の責任者の発言は満場一致で可決し、飛び石の休みになったらしい。責任者からその話を聞いた私は「愛だね」と笑った。

どうしても休めなかった人は、もちろん「自分はいいから、休んで欲しい」と責任者の申し出を断っている。それはきっと本心だ。お言葉に甘えて彼だけを出勤させたとしてもお咎めはないのだし、休める環境にある人は休めばいいのかも知れない。誰か一人のために、会社がくれた休みを社員がお断りするのは時代遅れなのかも知れない。

それでも私は嬉しかった。そして不満をもらす人がこの場にいなくて良かったと思いました。たった一人の意見でも、不満は彼らの思いやりをぶち壊すし、波動を狂わせる。綺麗事だと言われようと、「自分さえ良ければいい」ここにそんな人間は要らない。

 

この会社に入って色んなことがありました。これまで虐げられてきたせいで疑心暗鬼に駆られていた業務の人達にとって営業は敵。特に自己愛のスパイ(笑)だと思われていた私は、長年彼らから線を引かれ、心ない言葉を受けたことも多々あります。当たり前のように彼らの輪の中にいる自分は、気付かないうちに随分遠くまで来たなと、ふいにそんなことを。

私は最初からずっと好きだったけどね。私は生粋の営業じゃないから、自分が心からいいと思うものしか売れない。いま私は自信を持って彼らの技術を売っている。有り難いことです。需要があるのに顧客に迷惑を掛けたくないから売れないなんて、営業にとっては一番つらいよなぁ。存在の意味ないもん。