被害者様

今年のGWは長く、家でグータラしてネットを見る日々。ちょうどその頃は岡村氏の失言で沸いていた。それについても日記を書いたのだけど公開はしなかったんだよな。ただの批判でしかなかったもんで。

私が岡村氏の失言を知ったのは貧困ビジネス野郎の記事を読んだからである。遺族の感情はそっちのけにし、罪のない人間を殺めた「無敵の人」を庇った男。いつか日記にも書いたはずだ。嫌な予感しかしなかった。彼の思惑通り扇動は成功し、岡村氏は批判を浴びた。その後、風向きは変わったようで、まだマトモな人もいるんだなとホッとした矢先。

今はただの憶測でしかないけれど、(自ら)この世を去った若い女性がSNSで誹謗中傷を受けていたという。いつか日本も隣国のように犠牲になる人が出てくる。岡村氏へのバッシングを見ていてそう思った。同じ気持ちの人がそのようなコメントを残すのも見受けられたが、それらは全て擁護とみなされ、却って批判を浴びる始末。

私は子供の頃から、芸能人の住むバーチャルとリアルを一緒くたにする人が理解できない。いわゆる愛妻家の芸能人を見れば「羨ましい~。それに比べてうちは…」的な会話をする女性と話したくないと思ってしまう。母もそうなのだが全く共感もできないし、正しい答えが見つからない。「くだらない」という顔を隠し切れていないと思う。

不倫にしろ失言にしろ、バーチャルの中の人に悪影響を受けたと主張する人達は一体なんなのか。観察していると、暴言を吐き、「(批判で)〇んでもいい」と書き込む人達は『傷付いている』のだった。事の発端となるのはなんでもよくて、そこへいじめやパワハラモラハラなどの被害を昇華できない人が群がっている。更に嫉妬が絡みカオス状態。

芸能人は強者、自分たちは弱者。自分たちは弱者だから傷付くし、傷付けた人間を許せない。だけど強者は傷付いてはならない、批判される方が悪いという身勝手な思考だ。前も書いたかも知れないが、なら批判されるべき言動をした人間はいかなる理由があっても批判されて良いということになるのだが、それはなぜか許されないんだよな。

掲示板を見ているとよくわかるが、被害者様は隙あらば自分語りをする。いかに言葉が人を傷付けるか、それによってどんなに苦しめられているか、ということを長々と書く傾向にある。不倫・パワハラ関係・いじめの話題は、特にこの類の人で埋め尽くされるのだ。

しかし先に書いた女性の死へのコメントにはそういう人は少ない。客観的に意見を述べている数の方が圧倒的に多いのだ。おかしいでしょ?彼女はSNSによっていじめのような批判を浴びたのに。なぜそれに対しては怒りを覚えない?自分語りをしない?そういうことだよ。

 

私は岡村氏のバッシング以降、再びネットから離れた。自粛警察・集団ヒステリー・似非フェミニスト・ネットで他人を叩く人は私の人生に必要ない。簡単に扇動されるアレな人も、扇動するマスコミやメディアも要らないな。

『被害者様』は『正しさ』という名の元なら指で人を殺しても平気なのだ。残念ながら彼らには言葉が通じない。だから変わらなければいけないのは叩かれる方かも知れない。切り捨てる勇気を持たなければいけない時が来たのだと思う。