負との融合

一夜明けて、3日に渡り感じていた孤独感は落ち着いた。私は相変わらず一人を寂しいと思えないし、孤独を感じる現状ではない。それが何故、あんなに孤独を恐れたのかが少しわかってきた。おそらく過去の残像だと思います。

前回書いた、窓口の担当者。私にとっては「可もなく不可もなく」といった印象で、特別興味を引くような男性ではありません。しかし彼は自分より遥かに若い同僚に偉そうに指図され、その度に頭を下げるというような環境にいる。第三者の前でもそうなのだから、ほぼ日常的な風景なのだと考えられる。職場いじめみたいなもんか。

業務に追われる中でのそれはさぞキツいだろう。少し前、ため息と共に愚痴めいた言葉を漏らした彼に、「大変ですね」と声を掛けたのを覚えている。それがだ。私が受けたきついお叱りの中には、不備に関係ないことまで含まれていて、「それは八つ当たりっつーもんじゃないですか?」というのが今回の怒りのポイントである。

一見腰の低そうな態度の中に怒りをはらんでいる彼もまた、「正しさ」という名の元なら日頃の鬱憤まで上乗せしてもよしとする人間だったのだ。私の家族だった人はそういう人達である。そしてこれまで関わってきた難アリの人達も。そういう人達の中で感じる孤独は耐え難いものがあります。あの感情が彼によってフラッシュバックしたのだ。

波動ってあるね。こんな気持ちの中、数か月連絡が途絶えていた鬱病の知人から電話があった。「あぁ、引き寄せてしまった」と思いました。なんか、会社にいる無能な人間を辞めさせろ、と上に迫るというトラブルを起こしたっぽい。「会社に妙な期待をしないほうがいいですよ」と笑って電話を切った。今の私に負の感情を持ち込まないでくれ。

やっぱりいじめってよくないなぁ。だけど虐められた側が被害者意識から、加害者になることも多々あり、自覚がないだけに更に厄介だ。「正しさ」ゆえに他人を叩いても許されるなら、虐める側に正当な理由があればいじめも許されるはずなんだけどな。どんな理由でもいじめは許されないという人が、正しさを盾に「自業自得」と叩くのはあり。わけがわかりません。

結局、あれでしょ。「自分さえ良ければいい」という人達の間で、その時々に立場が入れ替わってるってだけなんじゃないの?だから窓口の担当者も同情に値しない人だってことだよ。二度と私の前でため息をつくな。あんたも立派な同類だよ。

針の筵のような状況でも、その環境に立ち向かえないなら融合するしかない。いくら不本意であれ、「私はあなた方と同じ種類ですよ、安心してください」と言わんばかりに擬態しないと生きていけないのだ。根っからの集り根性を持ち合わせている人は問題ないが、そうでないなら割と生き地獄です。常に良心との葛藤である。

善人が善人でいられない世界ってなんなの(私は違うけど)。私はいじめを受ける苦しさよりも、善人でいられない世を儚んで、命を絶つ人は多いのではないかと考えている。だからこそ「いま」の孤独に負けてはならないのだ。「不幸」に融合するとは、負の連鎖の一端を担うということでもある。不幸は悪。

やだー恐い。