公平

ごくごく一般的な「普通の人」は他意のない疑問に対して不愉快になる事は少なく、誠実に答えてくれる方が多いと思われる。しかし普通の人といえど、最初から疑って決めつけた不信感をぶつければ問題が生じる。つまりトラブルを招きやすい人は、起こらなくてもいい問題を自分で引き起こしている場合が多い。

私はそういう人達の中で育ち、深く関わってきた人もそんな人が多かったから、それが当たり前でした。何かが違うと感じながらも、そうでなくては受け入れられないのだ。そうでない自分になるのは相手を否定する行為だと捉えられる。「おかしい」と感じる自分が悪いのだと、理解できない自分に原因があるのだと思いながら生きてきた。

それを覆してくれたのは紛れもなくIさんです。「それはなぜ?」と真っ直ぐ私を見つめて聞いてくる彼の目には疑いや批判の色がない。そこにあるのは「理解したい」という想いだけだった。その時、違う世界の人だと思ったのをよく覚えている。そしてIさんとやり取りをする内に、私も彼と似たような感じになっていった。

私は間違えていなかった、最近よくそう思う。最初から「相手の間違いを正したい」とか「言い負かしたい」という念は相互理解からはほど遠い。意識による判断の7秒前に脳が判断しているという説がある。言葉は思考を表したものだから、ある種の人は言葉を聞いているのではなくて脳を見ているのではないかと考えている。

私とIさんは、とても短い言葉で会話をする事があります。「あー」とか「ん」とか、ひどい時は言葉すら発しない。でも伝わっているっぽいし、彼も不快に感じている風には見えず、寧ろリラックスしているようだから私達はこれで正解なんだろう。

Iさんと出会ってから、ACからの脱出やパワハラとの戦いや潜在意識改革に必死になっていたので気付かなかったけど、あの人間関係でトラブル続きの毎日は本当になんだったんだと思う。今もある意味では無くもないが、前の日記で載せた絵のように極一部分だから、その他が満たされている事によってカバーできる範疇に収まっています。

パーソナル障害であれ、自分ではどうにもできない「何か」であれ、母のような人達と関わることに私はもうデメリットしか感じていない。善か悪かという話でもなく、他の人から見れば魅力を感じる部分があるのだろうから、その人達を真っ向から否定しているのではありません。

私は穏やかで問題を引き起こさない人に好感を持つ、それだけだ。こちらが他意なく聞いた事に対して否定と捉えられたり、「責められた」と歪んだ受け取り方をする人達が面倒くさ過ぎる。否定されたと感じるならそれでいいじゃん、納得したくなければしなくてよろし。私は困らない。

 

私は家庭環境が原因なのか元来の性格なのかは解らないが、とにかく疑われるのが大嫌いです。自分が正しいと決めつけて簡単に他人を疑うような人は、それがどれだけ不愉快な気分にさせているか考えたことはあるのか。「不安からくるものだから安心感を与えましょう」などと説く人に昔からモヤモヤしている。

でも、その道の偉い方々が挙ってそう仰るのだから正しいのだろうと渋々従ってきたけれど、本当の自分に戻りつつある今は

f:id:okirakugokiraku:20190526214037p:plain

と声を大にして叫びたい。とはいえ私も疑うことはあるし、誰だって1度位はあるでしょう。だけど疑っておいて、こちらが真摯に答えても信じないのはアレだな。それはもうこっちサイドには関係ない話でしょ。

百歩譲って安心感を与えるまではいいとし、それいつまで続くの?次から次へと疑いの種を撒き続ける人も延々と安心させてあげなきゃいかんの?何の罰ゲームだよ。そのメリットは?どんな素晴らしいご褒美があるの?

仮にIさんなら全力で安心させるよ。理解して欲しいから、笑っていて欲しいから。逆に言うと理解して欲しくもないし、笑っても欲しくない人に与える安心感はただの掃出しで、含み損を抱えて戻らないまま上場廃止する株と同じだ。(ちなみに3月に上場廃止になった株は幾らかで買い取ってもらえたものの、十数万の損失になりました。涙)

払った犠牲を数えるのはよくない。回収しようと執着するから損切りできなくなるまで追い込まれるわけで。『富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる』私はこのブログを始めた時、この言葉に拒否反応を示していた。「そんなのおかしいでしょ、不公平だ」と憤慨さえしていたような気がする。

でも今はそれこそが『公平』であるように思うんですよ。