世界は美しい

先日書いたボーダーラインというのは、ある種の人達と普通の人との間にある溝だ。過去にその溝を今にも飛び越えようとした時、私を責めるような家族の目に躊躇して結局超える事が出来なかった。

「見捨てられ不安」読んで字のごとしだけど、見捨てられるのではないかという不安を抱いた人間は、ありとあらゆる手を使って相手を引き留めようとする。自分が必要とされているかどうかを試し、無言の圧力や恫喝で相手を傷付ける。かと思えば急に落ち込んでしおらしい素振りを見せて同情を引こうとします。

私はこの光景を何度も見ている。ある種の人達と決別する時に多くの人が通る道だと思いますが、ここで振り切れるか引き摺られるかが運命の別れ道だ。もちろん情けを掛けたい人はそうすればいいし、可哀想だと思うなら優しく包み込んであげればいい。しかしそうでないのなら、さっさと置いていくべきだ。

エラそうに書いているけど私も見捨てられ不安を感じた経験はある。恋人だけに執着していたために、彼を失ったら行き場をなくしてしまうという怖さ。彼だから執着したのではなくて居場所がなくなるかもという不安から来るものだったと思う。

心に闇を抱えた人は常に理解者を求めている。しかし絶対的に数が少ないので一度捕まえたターゲットを逃すまいとするのは当たり前なのかも知れない。だけど数が少ないという事は大多数に受け入れられていない証拠でもある。マジョリティの意見が正しいとは言わないが、困りごとがあるなら自分を変えるしかないだろう。

精神的に自立して他人を必要としない人間になるか、マジョリティが必要とする人間になるか。私にはそれくらいしか思いつかないが。

過去の私は自分の持っていないものを手にしている人を羨み、自分の境遇を呪い、世の中の不幸を全て背負ったような気になっていた。自分だけが努力しているという傲慢な思考を持っていたからこそ、似た境遇の人の中にも努力を見出していたのだ。

今の私はごく普通の人の中に努力を見出しています。穏やかで争いのないありふれた毎日は努力なしでは訪れない。自分の為でもあるだろうけど、相手を不快にしないよう言葉を選び、感謝と謝罪の気持ちを表すことを惜しまない。その積み重ねで平穏な日々が成り立っている。

過去の自分、そして関わってきたある種の人達が指す努力とはなんなのか。自分は変わらずして相手を操縦しようとし、思い通りにならなければ力技で相手を傷付ける。一方的に相手から奪うだけで、何一つ与えようとしない。傍から見ればただの搾取を努力と言い切る辺りが認知の歪みなのだろう。

私は努力しない人間は嫌いなんだよ。だからもうある種の人達に同情することはありません。頑張っている人、いわゆる普通の人と共に生きて行きたい。

世界はこんなにも美しいのだから。