享受

今日は春分です。占星術的には新たな1年のサイクルが始まる日、宇宙元旦とも呼ばれています。スーパームーンの満月も重なって、良いスタートを切れそうですね。ここから変化の波は更にスピードを上げるだろうと言われております。

この宇宙元旦を迎える前に自浄作用によってエネルギーが切り替わり、それに伴って体調の変化や気分の浮き沈みを感じる人が多いそう。私はまさに過去と現在を行ったり来たりしていた。以前の自分と変化する自分の間で様々な葛藤があったり、不意に決意が揺らぎそうになったこともありました。

そんなこんなを経て、私は「自分を生きる」のだと、自分で生きていいんだと思えるようになった。この3か月強の間に起こった服の好みなどといった物質的な変化は既に書いているけど、精神的な変化をもう少し詳しく書いておこうと思う。

先日、すっかり忘れていた潜在意識を久しぶりに思い出して、根本的に何が変わったのかと色々考えた。一番大きいのは常識がなくなったことですが、結局常識とはなんだったのか。今は人間の想念の塊だと思っている。

昨今、不倫問題について異常とも言える世間の厳しさが目に付く。いや駄目なんだけど、そこは他人が口を挟むところでもないし、人格まで否定するほどのことなんだろうか。私は”浮気は男の甲斐性”だという価値観がまかり通っていた時代に産まれているので、ただのジェネレーションギャップなのかも知れませんが、それにしてもあの叩き方には違和感を覚えずにいられない。

これは単に私にとっての常識と否定派の常識が違うだけだし、否定派から見れば私の価値観がおかしいのだろう。しかしそれが暗黙の了解だった時代から今や否定派の方が力を持ち、徐々にそれが世間の常識になりつつある所を目の当たりにして、こうして常識は変わっていくんだというのを実感しながら眺めている。

不倫はただの一例で、SNSの普及により世間の声を重視するようになったことで、声を上げた者の想念が常識になっていく現実が末恐ろしい。声を上げている人達は自分の立場や感情には敏感すぎるほど敏感だが、相手の立場や感情には無関心すぎるからだ。自分の正しさだけを主張し、相手の価値観を認めないのなら自己愛と同じではないか。

こんな時代に自分の価値観がぶれぶれで、日々移り変わる常識に振り回されていればそりゃ疲弊もするだろう。そして器用に新しい常識の波に乗り続けられたとしても、その結果には誰も責任を取ってくれないのだから。

実際、匿名で執拗に他人を叩く人は「自己責任」という言葉を多用する。世直しのつもりなのか、正義をふりかざして自分に害を与えたわけでもない他人を窮地に追い込むことには責任を感じないのに、だ。

私はもう他人の常識なんざ聞き入れる気はない。自分が正しいならそれでいいではないか、わざわざ他人を認めさせようとするんじゃねぇ。他人の価値観を変えようとし、それが簡単にできると考えているならまずお前が変われ。自分の常識を押し付けようとする傲慢な価値観を変えてみろ、とも思っている。

今のこうした世界を見て二極化とはこういうことなのかと思う。上手く言えないのだけど私とあの人達とは心が住んでいる場所が違うと感じる。繋がっているはずなのに、自分には全く関係のない世界で「なんだか大変そう」という、まるでテレビを見ているような隔たりがあります。

常識を作り出す人や他人の常識に合わせて自分をそこへはめ込もうとする人はいつか常識に雁字搦めになる。私は常識がなくなって他人への興味も薄れてしまったけれど、決して傍若無人に振舞うとか他人を軽視しているわけではありません。常識を疑うようになったと言えばわかりやすいだろうか。

自分の中の常識に従って生きるのは心が楽になる反面、その責任も全て自分で背負わなければならない。言葉の上辺だけを切り取って自分の常識で生きた結果、それが間違っていたなら全部自分に返ってくる。だからこそ他者との調和は必要不可欠で、寧ろ以前よりも正しく生きる必要があります。

自分らしく生きるというと良い面ばかりがクローズアップされがちだけど、自制と自律が出来なければ感情のままに動く動物と同じだ。自分の思考に責任を持つ覚悟がなければ簡単に手を出してはいけないと思う。自分軸で生きるとは自立することなんだけども、その難しさはここにあるような気がする。

だからこそ心の自由を享受できる喜びもひとしおなのですが。