自作自演

私は常識がなくなったと書きましたが、世間の常識はもちろん、自分自身が持つ常識をなくすことも含まれています。自分の中にある常識は、他人や過去の出来事から作られている事が多い。それらを疑い、ひっくり返していく事で、今までの常識は力を持たなくなる。

私は幼少期の記憶から「私が本当に望んだ物は手に入らない」という常識を固定していた。私は手に入れるのが目的になっていて、それを手に入れた時の喜びを得たくて仕方がなかったのだけど、それは欲しい時にやってこなければ意味がない。だから、まだかまだかと執着し続けた揚句、最後には投げやりになって諦めて、残った物は「手に入らない現実」だけでした。

この3か月強で私は待つ事を覚えた。欲しい服に目星を付けて「この値段だったら買う」と決めて放置する。その間は執着せず、買えなければ縁がないということだと思っていた。結果は思い通りになった。買えなかった物もあるけれど、それより更に良い物が買えたので不満はありません。

些細なことですが、結局大量の靴達もトータルすれば4分の1程度の出費で済み、服達も半額に近い値で買え、お気に入りの物で埋め尽くされたクローゼットになったのだから私にとっては上々の結果だ。そしてなんとなくだけど「欲しい物って案外簡単に手に入るんじゃないの?」という新たな常識が自分の中に生まれたのが何より大きい。

潜在意識は魔法ではないので、突然物質が目の前に現れるのではありません。頭ではわかっていても、これまでの私はどこかで向こうから勝手にやってくる事を期待していたのかも知れない。それと私は「望んだものは手に入らない」という常識に加え「手に入れるには努力するしかない」という常識を持っていた。

幼少期の記憶とは、兄弟は苦労をせず欲しい物を与えられたにも関わらず、私は遥かに小さい物でも何らかの代償を払わなければ手に入れられなかったこと。兄弟のために諦めなければならなかった事の方が多いというものです。こうした過去から私が抱いた真の願いは「何の努力もせず欲しい物を手に入れる」ことだったのだと気付きました。

しかし私は潜在意識を使いこなす事を努力だと認識していたのだと思う。願い続ける事こそが忍耐であり我慢だった。だから仮に願いが叶いそうになっても無意識に抵抗したのではないかと考えている。それは紛れもなく自分の中では努力の結果なのだから、努力して手に入れたものは私にとって忌むべきものだったのだ。

よくわからないかも知れませんが、とにかく私の方向性は全く逆だったということです。努力をしたくないから潜在意識を使おうとし、それが自分の首を絞めていたのでした。

私は若かりし頃、ふと願ったことが現実になる事が多かった。少し前だと何となく「いいな」と思った新しい車を会社が社用車として与えてくれたりした。だけどそれらに喜びはありません。すごく欲しい物ではなかったからです。なので「叶った」という実感はなく、ぼんやりと「あ~きたな」というだけ。

簡単に手に入れられるモノにときめきはありません。あって当たり前のモノにもときめきはありません。だからこそ何かの重要度を高め、特別なモノに仕立て上げようとする。私が欲しくて欲しくて堪らなかったモノ達は、特別だったから望んだものではなかった。私が特別なモノとして扱ったから特別になったんだ。まさに自作自演。

私はもうときめかなくてもいいと思っている(あった方が嬉しいけど)。静かに欲しい物を手に入れて、当たり前に感謝しながら生きる人生を目指そうかと考えています。