思考の奴隷

リングを引き寄せようと思い立ったお盆、しばらく遠ざかっていた潜在意識のサイトを読んでいました。引き寄せの法則量子力学で科学的に証明できるという説があるほど、その関係は深いようです。シークレットの中にもその道の博士が出ておられましたしね。

その中でも有名なのは『シュレティンガーの猫』です。シュレティンガーの猫をざっくり書くと、ある条件で毒ガスが出る装置が入った箱の中に猫を入れる。ある条件が満たされる確率は半分。一定時間が経過したら箱の中の猫はどうなっているのか、という思考実験らしい。

箱の中の猫は蓋を開けて観測するまで生きているか死んでいるかわからないので、生と死が50:50で存在している。つまり確認するまでは生と死が重なっており、蓋を開けた途端、生と死どちらかの状態に収束される。(元々は誰かの理論を指摘するためなので、もちろん実際に実験がなされてはいない)

 

潜在意識で「ある」と「ない」が同時に存在すると説く場合には、この実験がたびたび出てくる。私はリングが売れていたと聞いた後、この話を思い出していた。

私はずっと、あのリングは自分が買うのだと思い込んでいたので、目出度く購入に至った時、私の世界には「ある」しかなかった。だけど現実には購入から3日も前「これでリングを買えます」と張り切ってここで書いた時には既に「ない」状態だったのです。

そして売約済だと聞いた時、私の「ある」は「ない」に変化した。しかし数日経って、他の国に「ある」状態だと判明した。本当に「ある」と「ない」は同時に存在したのです。上手く説明できないのだけど、「ある」と決めつけるのも「ない」と決めつけるのも意味のないことなんだなと納得した出来事だった。

そして私は、このブログを書き始めた頃に同じ状況になったとしたら、果たしてリングを引き寄せていただろうかとも考えた。「売れました」と聞いた瞬間『どうして私の願いはいつも叶わないんだ』と反射的にお店の方の厚意を断り、「ある」可能性を自分から切り捨ててしまってたのでは、と思う。

これはネガティブとかポジティブとかそういう問題ではなく、どちらかというと視野の狭さ広さという類のものではないだろうか。他人軸で生きていた頃は外部からの情報を無条件に受け入れ、それをあたかも自分のもののように錯覚していた。そして知らず知らずの内に雁字搦めになっていたのです。

とかく外野は無責任だ。自分の常識を押し付けてくる人達だって、本当は誰かの意図に踊らされていることに気付いていない。又聞きの又聞きの又聞き。そんな言葉に何の意味がある?だから私は他人軸で生きてる人の言葉なんざ信用しないし受け入れない。

この世で唯一自分がコントロールできるものは自分の思考だけ。なのになんで思考の奴隷に甘んじてなきゃいかんのだ。甘んじてるから思考が敵になるんじゃないかなって思ったり。自分の思考に振り回されてる人が他人をコントロールしようとするなどおこがましいのです。