拒否反応

パワハラモラハラはわかるけど、スメハラとかブラハラとか次から次へと生まれる、わけのわからない〇〇ハラ達に拒否反応を起こすようになった。

 

今から思えば考えられないけど、私は不機嫌な人の心を覗こうとする癖がありまして。何がその人をそうさせるのか、その背景にある感情はなんなのかと。自分がネガティブだから波動を同調させてしまってたのでしょうね。自分の中にあるのと同じ種類のものを、そうして無意識に他人の中に見出していたのだろう。

私はもうそれらに心を引き摺られることはなくなり、エイブラハム様のいう「転換」を行わなくてもよくなった。なので、ポテサラジジイのような人に暴言を吐かれても腹は立たないと思う。「母親ならポテサラくらい」はあなたの常識であって、私の常識ではない。何を根拠にそんな常識を持ったのかしらんが、私には何の関係もないのだ。

論点はそこじゃないこともわかっている。もちろん見ず知らずの他人に暴言を吐くジジイが悪い。だけど私はジジイのような人だけでなく、そういう言葉に対して過敏に反応しすぎる人まで受け付けられなくなってしまった。真逆の性質への変化にちょっと戸惑ったりもするけど、私はこれでいいと思っています。

もうさ、人間はリスクだよ。自分では考え抜いたつもりで選んだ言葉が「傷付いた」という理由だけで加害者になるなら、そうなる可能性が少しでもあるのなら、私は言葉さえ交わしたくない。どうしても関わらなければならない場合は、必要最低限の短い文字で済ませたい。加害者になるリスクを抱えてまで積極的に関わりを持ちたいとは思わない。

 

私はスピリチュアルに生きる人にしか興味はないと書いたけど、正確にはスピリチュアル「的」でした。私が考えるスピリチュアル的に生きる人というのは、古き良き時代の精神を保っているというか、良い意味で古風というか、そんな人。ただ「精神論はいらない!エビデンスは?ソース出せ!」と叫ぶ現代人の中にも古き良き時代の記憶が残っているのが厄介だ。

「今の時代」を多用して言いたいことを言い、あらゆる配慮と理解を他人や社会に求めるのはいいが、都合の良い時だけ古き良き時代を持ち出して、「日本人は冷たくなった」と責めるのはいかがなもんかね。昔はね、そこに感謝や敬意があったわけさ。そんで、それが助けてもらう側の「お返し」だったわけよ。

配慮と理解を求める権利は当然ある。だけどそれを断る権利もある。それでこそフェアってやつじゃないかしら。でもこれをいうとまた〇〇ハラとかで訴えられても困るので、やっぱり関わらないのが一番なのだ。

〇〇ハラに本気で取り組もうとすると、私は天気の話しか出てこないような気がする。血液型の話をするのが冒頭のブラハラらしいですよ。全くあてにならないのは知ってるが、本人が「私、B型だから~」とおおざっぱさの言い訳にし、「これだからB型はー笑」と笑い合える世界がいい。私はそんな世界を望む。間に割って入ってきて「それは差別ですよ!」とかいう人間はいらんのじゃ。