自家発電

エーテルコードを切り始めてから自己愛達との心の距離は更に遠くなった。些細な事は気にならないというか、私は人種の違う人達だと思っている。人種が違えば考え方も変わるのだから、理解できない事は無理に理解しようとしなくていい。放置しておけばいいだけ。

私はもう母や過去の出来事を思い出す時間はほとんどなく、未来の事も考えない。今を生きるとはこういう状態なのかと考えたりする。そして改めて、過去を握りしめるほど無意味なことはないなと思う。

過去の中に生きるというのは、言葉通り今を生きていない。振り返ってみると現実を生きながら真実は見えていなかった。頭の中で生きていたようにしか思えないのです。自分の見たいように見る=自分が世界を作っている。今はこの言葉に何の違和感もなく、むしろ当然なくらいに感じています。

過去に生きる人と今を生きる人はおそらく共存できない。もちろん広い意味では共に存在できても、理解し合えないので心を通わせることは難しいだろう。となると、同じような人で集まるしかなくなってしまう。

私は他人に興味がないと何度も書いています。とはいえ他人を蔑ろにしているのとは違い、求めるものが極端に少なくなったと言えばわかりやすいのかな。「他人に求めても裏切られるだけ」などという下心満載の手放しとは全く別で、自分のために相手を変えようとしない、まるごと受け入れますよという意。

そして求めない反面、与えるものがすごく増えた。相手に求めるのは自分が持っていないのだから、与えられなくて当たり前です。求めなくなったら自家発電できるようになったので、キャパが大きくなったのだと思っている。持て余し気味の何かを与えるのだから、もちろん無償だし見返りを求めることもない。すると与えたものが返ってくるようになった。

でもやっぱり「誰にでも」というわけにはいかなくて。見返りを求めないのと一方的に与え続けるのは分けて考えたほうがいい。これはあくまで私の考えで、博愛主義者を否定はしないし、与え続けたいならそうすればいいと思ってますよ。今のところ、この線引きは「自分が嬉しいかどうか」を目安にしています。

他意なく行った行為に対して手放しで喜んでもらうと、とても嬉しい。だけどさらっと「次もお願いね」という態度を取られると萎えるしセンサーが反応する。そこを排除していけば、似たような人が集まります。今は極々一部しかいないけど、以前はこうした搾取体質の人が周りに結構いて、断れなかったのは自分の弱さだったと反省している。

「与える方が幸せ」の意味が何となくわかったような気がする今日この頃。だって与えられるだけってとんでもなく不幸だ。持ってないものを求め続けなければならない苦しさ、いつか与えられなくなるかもという不安に怯え、失った時の怖さを想像しては焦燥感に苛まれる。

本来の意味とは違うかも知れないけれど、私は自分が作った地獄から抜け出せたのだと思うと幸せを感じずにはいられない。自分の中から生まれるものは誰にも奪えないのだから。