自由と不自由 2

少し前ネットにはまっていた頃、ある方の「お金は紙」という発言が波紋を呼んでいた。当然それは批判の対象になり、「その紙がなくて困っている」だの「じゃあ燃やせばいいのに」というわけのわからない意見が飛び交っていて。真面な意見は擁護と見なされて叩かれる始末だった。

今思うとあれも自分の意識を変えるきっかけの一つだったような気がする。経済力に関していうと私と発言主は真逆の人間で、どちらかと言えば批判側に近い。それでも「こういう人達とリアルで関わりたくないな」と思いました。その方は「紙を経験に変える」と持論を語っているだけなのに。

最近若者の読解力が低くなったという記事がありましたけど、若者だけってことはない。批判したがりの人は読解力のなさに加えて、他人との間に線を引けていないのが問題なのだと思う。自分に向けた言葉ではなくても過敏に反応し、勝手に怒ったり傷付いたりと、とにかく面倒くさい。

私は今、裕福な方々が経験していることにとても興味がある。それを自称「お金がない」人に言うと「あの職業は年収いくらぐらいだから」とか、全然求めてない情報を教えてくれたりする。そんなこと聞いてねぇ。話す相手を間違えた自分が悪いと反省した。と、こんな感じで話が噛み合わなくなってきている。

 

自分もそうだったように、今人生がうまくいってないと感じている人は多いだろう。とはいえ私だって今も「うまくいっている」と言えるほどの生活じゃないけど、それでもツイてない出来事が不幸だとは思わない。しなければならないことは現実的な対処だけで、そこにいちいち感情を持ちだす必要がないから。

おそらく「うまくいってない何か」のせいで批判したくなるのだと当人は本気で思っている。だけどわざわざ見に行くという行為が、怒ったり傷付いたりしたいのは自分だと物語っているではないか。そんな自分を許しているのも自分。不幸な自分を再確認したい=本当は不幸でいたいのだとしか思えない。

先日書いた”頑張って欲しい物を買えた時の喜びを~”云々もそうだ。あなたにとってその商品は頑張らないと買えないだけで、その人にだって頑張らなければ買えない物はきっとあるよ。それに、その物を買うために頑張ったわけではなくても、過去に頑張ったお蔭で今簡単に買えるようになったんだろう。

だから”頑張る喜びを知らない”などという言い方は、あまりにもお門違いである。プチプラで良い物を買ったという報告は「ためになる」と賞賛され、金額が大きくなればなるほどただの自慢と捉えるのはおかしくないか。いや捉えるのは勝手だけど、斜め上の決めつけはどうかと思うんだよ。

批判する側は「させられた」という言葉を多用する。強制や押し付けを極度に嫌い、そんな社会が悪いと口々に叫ぶが他人の自由は許さない。自分が不自由を感じているから世界も不自由であって欲しいと願う。それは今の自分を固定したままで、世界が自分に都合よくあることを望んでいる証拠だ。

ところがどっこい、そんな願いとは裏腹に世界は勝手に変わっていく。自分の世界を自分で変える人が増えれば増えるほど、その変化は早くて大きいものになるだろう。自分を変えなかった人は「取り残された感」を感じ、もっと不満を感じるようになる。

私は今後、更に精神の二極化は進んでいくと思っている。自由に生きたい人達は批判をもろともせず、己の心に従って生きていくような気がするのです。これまである種の気遣いを見せてきた側だって限界に近付いているのだと。

自由は人はより自由になって与え合い、不自由な人はより不自由になって奪い合う。私はそれでいいと思っている。