何もなくても 何があっても

ここ最近お金のことばかり書いているけど、別に拝金主義になったわけじゃない。あの災害が起こる前からタワマンには住みたくなかったし、いわゆるお金持ちの象徴に憧れがないからだ。お金持ち=タワマンという短絡的な発想が出てくる自体が、既にお金持ちとは程遠い思考を持っているという自覚もある。

私はずっと「何もなくても幸せに生きられる」術を探し続けていた。

過去の自分、そして周りの自称「お金のない」人を見ていて、何をやっているんだろうと疑問を感じることがある。ずっとお金のことばかり考えていても、どこかから降って湧いてくることなんてそうそうない。「ない」現実を片時も意識から外さないのは本当に無駄な時間だと、今はそう思っています。

実際に、私はお金が入る=給料を上げるという程度のお金を得る方法しか考えつかなかった。残念ながら投資のセンスも壊滅的だし。だから仕事を頑張り、いつか認めてもらえれば給料も上がるはずだと信じていました。ところがそれは報われることなく、不平不満ばかりを募らせていた。

そして最終的には安楽死まで考え、願望を手放した。それなら先のことなんてどうでもいいじゃないか、どうにもならなくなったら死ねばいいと。ただ、あそこで会社を辞めてしまうのはちょっと違うと思いました。今置かれている環境のままで変わることに大きな意味があったから。

そんなこんなで私は給料を上げるために頑張ることをやめた。とはいえやってることは今までと変わらない。頑張ることをやめてみると「え、別に頑張らなくてもできるよね」って感じでした。簡単に出来ることに、頑張っているレッテルを張っていたのは自分だったと気付いたのです。

頑張ってないから認めてもらいたいとは思えない。頑張ってないから自分だけが損してるとは思えない。時間が来れば会社に行き、仕事と言えるのかどうかわからないような事をサクサク片付けて、空いた時間はネットに勤しんで時間が来たら帰る。これでツライわけがない。

そして私の顧客は仕事柄、裕福な人がほとんどです。これまでは雑談をしていてもプライベートな話をすることはほぼなかったのですが、数か月前から趣味や休日の過ごし方について話すことがとても増えまして。ちょうどお金持ちは何にお金を使っているのかと興味を持ちだした頃から、なぜか自然とそうなった。

だから客先に向かうのがとても楽しい。私は仕事そっちのけですが、妙に親しくなったからか、なんだかんだと仕事をつくってくれる。頻繁に営業を掛けにくい仕事なので、売上はともかくとして顔を出すきっかけをいただけるのはとても有難いことで。

私はあれほど愚痴っていた会社にうっすら感謝の念を抱くことすらあった。こんなに楽チンで、この仕事でなければ縁のないような方から色んな話が聞ける。自己愛達との関係も大きく変わったせいもあって、今の環境をちょっと好きになった。そんな矢先の昇給と、大きな臨時収入。

 

現実が動き出した今、世界が変わったことよりも「世界は変えられる」と実感できたことの方が嬉しい。そして「自分の意識は変えられる」という自信は、お金よりも遥かに大きな財産だと思っている。意識を操れるなら、どんなことが起こっても幸せに生きられるはずだもの。

以前も載せた堀江氏の、時間革命 1秒もムダに生きるなについてなのですが、私は氏の言わんとしていることを自分なりに解釈し、大きく納得しながら読み進めていた。でも何かが足りない。とても大事なことだけを書いてくれていないような歯がゆさを感じながら本文は終わってしまった。

でも最後の最後、『おわりに』の後にそれはあった。『自信とは「自分をコントロールできる」という確信』だと。流石です。