思考の無駄使い

5月も終わりですね。今月、株によって得た利益は30万弱になった。臨時収入と給与を合わせれば70万弱になる。ちなみに先月の利益は少なかったけれど、臨時収入が多かったので合計60万くらいかな。私から見れば大きな収入ですし、なにより株で利益を出せることが嬉しい。

去年の秋くらいから金銭面で変化を感じている。きっかけとして思い当たるのは、確か夏だったと思うけれど、ある時ふと「ワタシ、年収○○万欲しいな」と”思えた”ことだろうか。高い年収、収入を望む人は多いと思うが、受け取る覚悟がある人はどれくらいいるだろう。実際、私が望んだ〇〇万は稼ごうにもどうやって稼げばいいのかわからない金額だし。

ここでもお金について散々書いているように、私はお金を望んでいたはずなのです。しかし当時の私はただ闇雲に望んでいただけで、どちらかというと手が届かない憧れの存在だったように思う。言葉では伝わりにくいけれど、私が思った「欲しいな」は得る許可を自分に出せたような、そんな気がした。そしてその瞬間、スイッチが切り替わったのだと考えている。

私はいま「他人を許さない」ことが難しい。なにが先でなにが後か、はっきりした事は言えないのですが、「許さない」ことに対してのメリットをイマイチ感じられないのです。決して「許し」を推奨しているのではない。今だって事と次第によっては、きっと許せないこともあると思いますしね。

ただ、許せる範囲であれば許した方が得だと言いたいのだ。私は母を強く恨み、他人の中に母を見出して更に恨みを募らせるというループに陥っていたわけですが、母への見方が変わったと同時に他人の見方も変わったのかも知れない。自己愛達を許せるようになったのは、こうした心境の変化もあるのかも、と考察している。

恨みの念は強い。それらを無意識に置いたままにしていると、脳は自動的にサーチして現実という形で目の前に表してくる。だけど本当は実体がないんです。だって興味がなくなれば脳はサーチしないのだから、知らないうちにスルーできている。よって現実そのものが表れない(見えない)ということになるんですねぇ。

 

私は最近、株のことばかり考えています。今月は長いGWのツケが回ってきて、めちゃめちゃ忙しかったのだけど、株が気になるゆえフルスピードで仕事を終わらせる必要があったのでした。それでも「仕事はきっちりこなしますので、給料少ない代わりに自由を下さい。」「私は好きでやっているので助けていただかなくて大丈夫です。お願いだから邪魔はしないで下さい。」と、こんな風に思えるのだ。

自由なサラリーマンとはいえ、やるべき仕事もやらないで自由を求めちゃいかんのだよ。全ては自分のため。自分のためではありますが、誰も困っていない。会社は売上ないと困るのだから働いてもらわなければならない。忙しさのあまりイライラしていれば、空気をピリつかせて周囲に不快感をもたらすが、全然イライラしないので普通に笑っている。

私が今見たいものは勝利の瞬間だ。誰かを恨む現実を持ってくるなどという非生産的な活動を、脳にしてもらいたくないんだよ。「私の閃きのためだけに働いてください」そう思考を送り出し続けている。思考の無駄使いはよくない。