ジャンキー

新型コロナによって変わっていく世界を見続けているけれど、私が住む世界はほとんど変わっていない。仕事は顧客との関わり方が少々変化したくらいでどうということもなく、私生活は元々の行動範囲が狭いのでコロナ前から自粛しているようなものだ。そして相変わらずの無味無臭生活を送っている。

感情に揺さぶりまくられる日々を送っていた以前の私にとって、無味無臭の人生ははっきり言ってつまらない。怒りはある意味で「生きている証」でもあったのだと思う。何かを手に入れたり、また守ったりするためにはそうする必要があると信じ込んでいた。やっと過渡期を終え、無味無臭って実は全然つまらなくないのだと思えるようになった。

私は自己愛・共依存共に、とてもいい関係に落ち着いた。よく誤解されるが、私は誰かのものを盗ったり奪おうなどと考えることはありません。自己愛の大切な人を取り込もうとも思わないし、共依存の大切な自己愛に取り入ろうとも思わない。ただ仕事に個人的な感情を持ち込まないで欲しいだけだ。最初からそう言えば良かっただけなのに。

私なんかがそんなことを口に出してはいけない。私ごときがそんな態度を見せてはいけない。そういう自信のなさが私自身を苦しめてきたのだと、つくづくそう感じる。別に今も自信があるわけではないけれど、少なくとも彼らの心には通じるものがあったのだと思う。私はありのままで良かったのだと。

ところで新型コロナによって二極化は進んでいるのだろうか。それはさておきマスコミやメディアは人間の醜い所ばかりを見せつけるものなんだな。彼らは旬をお届けする媒体だ。大衆が何を望んでいるのか、何を見たいのか、その中でより反響の大きいものを選ぶ。彼らは大衆そのものを映し出しているということで。

純粋な美談を好む人、叩く材料を探す人。割合で言えば一目瞭然か。私はまんまと彼らの術中にはまり、人間嫌いに拍車がかかっている。自分の目指してきた「普通」は、今の私から見ると普通にはほど遠く、私のなりたかった普通の人は、もう当たり前のようにそこらにはいない。大半がふるいの目から零れ落ちてしまいそうだ。

だから私は彼らの心を見たり感情を波立たせる必要がない。自分には関係のないこととして雑音を流せる人生って案外良いものです。無闇矢鱈にコトを荒立てることと問題を解決することは全く別物だ。問題解決への糸口として怒りを駆使するのはだいたい何の役にも立たない。ところがどっこい「己を正当化できる」という非常に魅力的なメリットがあるのですね。

改めて、怒りは麻薬だと思う。ジャンキーには関わらない方がいいのだ。