無我

ちょいちょい引用させていただいている詭弁氏の言う『幸せ』を、ずっと探していた。考えて見つかるものではないんだろうけど、その世界を知りたかった。「それ」は多分、文字通り「幸せがデフォルト」ということなんだろう、と思う。

潜在意識は、無意識に流れ込んでくるものを静かに蓄えている。生まれた時から何でも与えられる、美しい世界しか見てこなければ「全て手に入れられて当然」だと信じるのは当たり前だ。そのままの意識を持ち続けると手に入れられる状態が続くだろうから、わざわざ潜在意識を使って幸せになろうなどと考えないように思う。

潜在意識の世界に足を踏み入れる人間は、何かを欲し、それが手に入れば幸せになれる可能性に賭けた人が多いのではないだろうか。その多くを不幸寄りだとするなら、不幸がデフォルトなのも言うまでもありません。だからこそ、この世界に足を踏み入れたのに期待を裏切られ、不幸から抜け出せないという思考のループに嵌る。

「今幸せになる」とは。〇〇があれば幸せになれるはずだから、引き寄せようとしているのに、手に入っていない状態で幸せになんかなれるわけないだろう。と私も思う。いや、思っていた。

使い古された言葉ですが、幸せを願う時、相対的に不幸を感じている。というか常に不幸の中にいる。不幸を感じている時は他人の幸せが鼻についたり、ツイてない出来事にイラついたりするものだ。そうして不幸を認識することにより、確実に不幸感は増している。しかし、ちょっと良い事があれば、心に余裕が出来て不幸を感じている時よりは緩和されます。

それね、少なくとも不幸を感じている状態よりは、自分を幸せにできていると私は思うのです。しかし良い事が起こらなければ、不幸は増幅し続ける。なんなら良い事があった後、一見好転しかけたように見えたのに再び元に戻ったという場合、その反動は更に大きくなる。だからこそ、たまに起こる「良い事」に依存してはならないのだ。

詭弁氏は小池龍之介さんというお坊さんの記事を勧めていましたが、リンク切れで読むことはできなかったので、タイトルだけは見つけた。『「幸福」を「興奮」と取り違えた僕たちに、本当の幸せはこない』

ワタシ、今は何となくわかるんですよ。嬉しい偶然も思いがけない喜びにもいつしか慣れてしまう。しかし、それらに慣れるのはまだいい。人だったり物だったり、とにかく外部から受ける刺激に幸せを見出すことに慣れてしまうと、それが無い時は不幸でしかない。無我の位置を目指せ、と言われるのはこうした理由なんだろう。

私は少しずつ「幸せがデフォルト」状態にシフトしつつある。それは暗闇に指す光じゃない。砂漠の中のオアシスでもない。絶望の中の希望でもない。そんな特別なものじゃなかった。「私は不幸」だと感じるのも「私は幸せ」と感じるのも、たいして変わりはしない。ただの心の状態だ。

とはいえ、まだまだ些細な出来事に気を取られ、無意味に心を動かされることが多々ある。そしてこれからも「不幸がデフォルト」だった自分が顔を出し、その度に葛藤するのだろう。そんな中でも「幸せ」を選択し続けられる自分でいたい。

負けたくない。