欲しがったら負け

随分前に妬まれることへの恐怖から幸せになるのが怖いと書きましたが、恐怖は徐々に小さくなり、この2か月強の間にほぼ消えたような気がする。

そして仕事と私生活で真逆の性質を持つ私はとても疲れやすかったのだけど、以前に持っていた私生活の性格であるネガティブな面が無くなりかけています。こうなってみて、仕事の時の性格が本来の自分なのかも知れないと思う。

中学時代ほとんど家に帰らなくなった時期から、家を出て生き辛さに気付くまでの何年かは今のような性格だったので、その頃に戻ったような気がするのです。その間にはソウルメイトのNさんと一緒にいた数年間が含まれている。「私はもう一度、Nさんがくれた美しい人生を生きたいと思いました」と書いた1年4か月前が随分昔の事のように感じられる。

その期間以外の数十年は親を始めとし、他人という人間に翻弄された人生でした。改めて他人という人間は自分を幸せにも不幸にもする存在だと考えさせられる。スピ的に言えば悪いことも成長の為に起きているらしいので、必要じゃない人間はいないという事になります。しかし私は自分軸で生きるので害になる人はもう要らないなと思う。その類の成長はいらん。

私は昔から似非弱者に対してモヤモヤしており、つくづく日本という国はおかしいと感じている。人格障害者達に対して自衛の面から当たり障りなく接するのはいいが、対処法として彼らを気持ちよくさせましょう、理解しましょうという謎の圧力はなんなのか。相手が難アリの人間でも上手くやっていけない方が悪いという風潮が癇に障る。

本当に害をもたらす人間を庇い、加害者の心情を汲むよう強要し、被害者には我慢させるというやり方は日本の国民性なのかも知れない。今でも政治家がやる事はこんな感じだからね。私は日本そのものがブラック企業のようなものだと思っている。恵まれた国ではあるけども、日本に何の期待もしていない。

この2か月強で精神的に大きく変わったような気がしますが、他人の感情に左右されない生活はとても快適です。自己顕示欲にせよ承認欲求にせよ、欲しがる人より望まない人の方が強い。こういう場面でも”上手く煽ててやり過ごすのが大人”みたいな空気はうんざりだ。与える側には与えない権利もあるのだから、欲しいなら頭を下げろと言いたくなる。

しかし不思議なことに、そういうものも手放したら手に入るようになった。先日の共依存者の癇癪はなかなかに強烈なインパクトがあったようでしばらく話題になっており、「(私)さんは平気なんですか?」と聞かれたので「母親があんなだから慣れてる」と答えると、少し間を置いた後「だから気遣いに優れてるんですね」と返ってきた。

お世辞なのかそれしか言いようがなかったのかはわかりませんが、「だから似た感じなんだ」と思われるより全然いい。私は毒親育ちを少しプラスに転換できたようだ。だけど私がその言葉を必死に待ち望んでいたなら貰えなかった気がする。欲しくて堪らないという波動は確実に相手に伝わり、相手を苦しくすると思うから。

欲しがったら負け。こんな国だから私は二度と被害者にならない。