薄っぺらい優しさ

私の買ったバッグと同種類の物が大幅に値下げされていて、ちょっとショックを受けています。でも私が買った色はそれが最後だったようなので、値下げを待っていたら買えなかったかも知れないと自分に言い聞かせて平静を保っている(悲)。

人生で初めて買い、初めて持った赤いバッグ。私には派手じゃないだろうか、似合っているだろうかとドキドキしながら持ったのを覚えています。赤い靴もバッグもすっかり慣れてしまって随分前の事のように感じられますが、まだ1か月しか経っていない事に驚いている。こういう順応性だけは無駄に高くて困る。

習い事に通い始めて約3か月ですが、この間は自分が自分じゃないような気がしていました。自分の意識が体の中になくて頭の上にあるような感覚。そこから私を見下ろしているようだった。今も完全ではないけど、思考はだいぶまとまりかけたように思える。

この3か月間、私は自分の事だけで頭がいっぱいだった。他人の感情や世間の出来事に無関心で生きていても、特に変わったことはありませんでした。私が笑わなくなったからといって人間関係が悪化したわけでもなく、少々の問題はありつつも穏やかな日常が続いています。

ある種の人達との溝は深まったかも知れませんが、いわゆる普通の人達との関係は以前よりも良好になったような気がする。私は無理して笑うことをやめたけれど、決して機嫌が悪いわけではないからだろう。寧ろいつもゴキゲンなので、他人に機嫌を取らせたりしない。私は「私」で生きているだけだ。

そして他人の感情に無関心ではあるものの、他人をないがしろにしているのとは違う。相変わらず他人の相談にも乗るし、困っていれば助ける。以前と違うのは余裕だろうか。以前の自分は少なからず利害を考えたり、どこかで他人から見た自分を意識していた。

だけど良くも悪くも他人からどう思われようと構わないと思うようになったので、感謝の言葉も要らないし「助かったんなら良かったね」という程度の気持ちしかない。自分がしたいからする、したくなければしない。なので、そこに見返りを求めなくなりました。

すると、やたらに人から感謝されるようになった。「いつもありがとう」というメッセージ付のお菓子が置いてあったり、直接言葉で言われる事も増えた。これまでの私の薄っぺらい優しさはちゃんと相手に届いていたんだ。薄っぺらい物を与えれば薄っぺらい物しか返ってこないのは当たり前なのに。

 

小学4年生の女の子が両親に殺された事件について、私は興味がなかったと書いた。だけど本当は失望しているのかも知れない。

私は日を追うごとに昔の自分に戻っているように感じているのですが、改めて親の影響は大きいと考えさせられる。どんな親だとしても子供のうちはそれらが居なければ生きていけない。子供に機嫌を取らせる親の元で生きていくためには、本当の自分を隠して嘘を付かなければなりません。その結果自分を見失う。

私的には暴力よりもこっちの方が辛いのではないかとすら思います。自分の足で立てない人間が、違う人間を育てるのは無理がありすぎる。しかしそういう人間ほど、子供を持っただけで自分の足で立っている気になっている。もう本当に字面のまま「気になっている」のだ。

あの父親は論外として、母親を擁護する人達は何を見ているのか。彼女を「保護されるべき被害者だと訴え、逮捕されるべき容疑者ではない」と、ある団体が声明を出したそうですが、DVを受けたからああなったのではないと何故わからない?

「母親なのだから命に代えても子供を守るべきだという神話は通用しない」ともしているようだが、逆に自分が生きるために子供を産む女もいるという現実を認めないのは何故なのか。そんな母親はいないと思いたい気持ちはわからなくもないけども、それはただの理想ですよ。なんでかわからないけど、絶対にそこだけは認めないなこの国は。

自分を大切にするとは決して楽をすることではないし、安易に他人に寄り掛かることでもない。そもそも自分を大切にしていればDV男になんか引っ掛からないだろう。そして加害者を被害者に仕立て上げるのも優しさじゃない。そんな薄っぺらい優しさなんかで人は救えない。