Iさんの話44~守~

あまりにも一度にあれこれ手を着けすぎたからだろうか、先月下旬辺りから何もかもが失速した。習い事もかなり早い段階で惰性へと変わってしまったように、無駄に順応性が高いせいで私のときめきはそんなに持続しない。自分1人ではモチベーションすら保ち続けられないのだと思い知らされる。

私は長い間「誰かの望む自分」になるために努力してきた。それは「こうなりたい自分」を演じているのと似ているけれど少し違い、「なるべき自分」を誘導してくれる人を自分の方から求めていたんだと思う。「なりたい自分」を持っていなかったから。

「頑張っている自分を認めてもらいたい」そう願っていたのは事実だけれど、本当は認めてもらうことより「誰かのため」にしか動けなかったのかも知れないと考えたりもする。例えば好きな人は色んな意味で原動力になる。誰かのために肌のお手入れをし、誰かのために服を買う。正確には自分のためなんですが、それらが全くない今、時々ひどく虚しい気分になる時があって。

自分を大切にする。自分のために、自分のためだけに。それはすごく楽しいことだと少しわかってきてはいるけど、やはり揺り戻しは起きる。前へ進んだと思えば過去へ戻る、今はやり過ごすしかない。私は物も人も離れるべき時が来たなら潔く手放せる女になりたいからです。何かを失うのと同時に自分も見失うような女に戻りたくない。

私は今もIさんが好きだけど、彼に好かれるために自分を偽るのは嫌だ。私が彼に冷めたと感じた時、私は彼を拠り所にするのをやめたのだと思う。つまりこれまでの自分は誰かを拠り所にすることを愛情だと勘違いしていただけなんだろう。

 

私が笑えなくなって間もなく、偶然私とIさんの手が触れあったことがあります。その瞬間、頭が真っ白になって心臓を中から殴られたような気がしました。単純にドキドキしたとかそういった類とは違う、説明できないような衝撃。上手く息ができなくなって固まっていたように思う。

私達は目も合わせられず黙って俯いていた。手が触れていた時間も俯いていた時間もほんの数秒だったような気がするけれど、とてもとても長く感じた。思い返せばIさんに異変が生じたのはその出来事がきっかけだったかも知れない。

それからIさんは自分から笑顔を見せるようになっただけでなく、以前にも増して優しくなった。こっちが戸惑うくらいの特別扱いである。しばらく治まっていた挙動不審や顔が赤くなる現象も再開し、思わず「落ち着いて」と声を掛けたくなるほどだった。

先日会った時、それらは落ち着いていた代わりに私達の笑顔は絶えることはありませんでした。私の一言一言に目を細めて微笑み、時には悪戯っぽく睨んだような顔をして私を笑わせてくれた。彼が自分の感情を出すのはレアなため、当然私もそんな顔を見たことがない。なんだかよくわからないけど、やっとここまで来れたなぁと思いました。

最近彼と出会ってからの事を考えることが多い。中でもやっぱり彼が私の事でからかわれている場面を鮮明に覚えている。私はそのあとIさんの感情を読もうと彼の目を見詰めたが、その目には何も映っていなかった。もし私だったら腹立たしいし、何より居た堪れないだろうに。

そして私も噂好きな女性たちがチラチラと盗み見しているのに、何度も不愉快な思いをしている。しかし私はそこにずっと居るわけではないから、一時の我慢だと思えば済む。だけどずっと同じ場所に居るIさんは?彼の優しさはとても嬉しいけれど、下衆い勘繰りをされて好奇の目に晒されるかと思うと耐えられなかった。

私はどうするべきだろう。いっそのこと好意を断ち切った方が彼のためではないか。彼を傷付ける原因を根本から失くした方がいいんじゃないか、とも考えた。でもそれらは私の取り越し苦労で、考えるまでもないことでした。彼はもうそんな態度を取られる立場ではなくなってしまったからです。

あの時彼は傷付いてもいなかったし、意に介さない振りをしていたのでもない。おそらく興味がなかったのだろう。今の私と同じで、本当にどうでも良かったんだと思う。大切にしなくていい人の顔色ばかり見て大切な人を傷付けてきた私は、Iさんのお蔭で必要のない人間を振り分ける術を身に付けることができた。

私はIさんに「認めて欲しい」と思ったことは一度もありません。そもそもIさんのために頑張ったわけじゃないから、認めるもなにもないですし。頑張ったから認めて欲しいというのは乞いだ。与える方にのみ権利があり欲しがった方が負け。条件を差し出し条件を飲む関係に愛なんかあるわけないのに。

 

今朝これを途中まで書いて出て行ったのですが、ふと母親のことを思い出してしまいました。母は殴られて泣いている私をどんな気持ちで見ていたんだろうと。体も心も傷付くとわかっていて自分の身代わりにするってどんな気分なんだろう。

私が愛されていなかったことは重々承知している。強がりではなく、今はそこに何の感情もありません。ただ、母は弱かったから守れなかったんじゃない、守りたいと思えなかったから弱かったんだ。今世では守りたいと思える何かに出会えなかった人なんだなと思う。来世に期待☆