Iさんの話40~価値~

私はIさんの微笑みやはにかんだ笑みを見たことはあるけれど、満面の笑みというものを見たことがなかった。私は何度か見せたことがありますが、顔を赤くしてそらされるか、最悪その場から立ち去ってしまうことがある。

彼は自分の変化に気付いていて、それを気にしているのではないかと私はずっと思っていた。私をというより、そういう自分を意識すればするほど人間は不思議な動きをするからです。

ぎこちなくなっていた間も、目が笑わない代わりに口元が緩むという奇妙な顔をしていたり、頑なに私の顔を見ないようにしていた時期もあった。私の態度を拒絶と捉えていたなら、負けず嫌いな彼も意地になっていた可能性もあるので真意はわかりませんが。

 

前回会った時、私は彼にはっきりと好意の目を向けた。口や態度に出せないからそうするしかなかったのです。しかし付き合ってもない異性にそうした視線を送るのはとても怖い。その前に私は付き合った人にすらそんな視線を向けたことがないのだから尚更怖かった。

それでもなぜか、私が勇気を出さなければと思いました。相手任せの恋愛ばかりで、ただもらうことしか考えてなかった自分を清算したかった。私とIさんは微笑みあって、長い間お互いの目を見つめていたから拒絶はされていない、と思われる。それでも人の心はわからないし、人の心は簡単に変わるから。

今は何かしらの好意を持ってくれていたとしても、そうでなくなった時にIさんが拒絶してくれるならまだいいんだ。私の好意を知ってしまったがために「無下に出来ない」と、彼を苦しめる存在にはなりたくない。Iさんだけには嘘を付かせたくない。それだけが怖い。

そんなことを考えている間に、Iさんに会う日がやってきた。彼は前回と同じく終始落ち着いていた。彼から感じていた緊張のような空気はなくなっていた。彼は何かに気が付いただろうか?拒絶ではない一定の距離を保ち、穏やかな時間が過ぎた。

そして最後に周囲に背を向けて、少し顔を赤くしながら満面の笑みを見せてくれた。それは少しぎこちなかったけれど、彼の精一杯だったんだと思いたい。

 

私は母親の心からの笑顔を見たことがない。母親の喜ぶことをした時や思い通りに動いた時にしか母は笑わなかった。母の中には、今の私と同じ感情が生まれることはないだろう。

そして、自分が母親にとって5000円の価値もなかったのだと、私はずっと恨みに似た感情を持っていたけれど、金で買えるものは替わりがあるんだ。私はIさんが笑いかけてくれる価値がある。それだけでいいし、その方がいい。