以前勤めた会社の先輩に会った際、軽く今の会社の事と自己愛の話をした。すると「今のままでいいの?」と静かに聞かれた。彼女とは何度も一緒に仕事をしているし、ライバルでありながら助け合える、まさに共存共栄が成り立つ唯一の人でした。私の仕事ぶりを見てくれていた彼女から言われた言葉は重い。

当時の私を知っている彼女は、まさか私がこんなことになっているとは思ってもみなかったようだ。あれからずっと考えているが、満たされた廃人は思考が停止しているので何も思い浮かばない。先の事より『今ここ』の方が大切のような気がするからです。

今のままでいいかどうかはおいおい考えることにし、私は仕事についてではなく自分自身について過去を振り返ってみた。当時の私はずっと嘘を付いていた。聞こえのいい言葉を選び、他人から見られたい自分を演じていました。もちろん彼女にも心を開いた事はなかった。

だけど今は違う。現状の話はしたものの、彼女に理解して欲しいと思ったわけでも、あの頃のように慰めて欲しいと思ったのでもありません。自分を偽ることなく話し、彼女の話も淡々と聞いていた。彼女はたくさんの褒め言葉もくれましたが、それに心が動くこともなかった。

ありのままでいて、ありのままを受け入れることが『ありのまま生きる』という事なんだろうか。彼女はあの頃と変わっていないのだから、相手は他人を理解するキャパを持っていたのに、ただ私がそれに気付かなかっただけだ。既にある、とはこういうことなんだろうか。

 

Iさんはとても丁寧に言葉を選ぶ人ですが、それだけでなく言葉のチョイスが美しい。綺麗じゃなくて美しいのです。そして彼女もIさんに似た部分がある。Iさん達の世界では普通なのかも知れないけれど、少なくとも私の育った家庭にはなかった。

世間一般では良しとされる言葉が私の家族の中では馬鹿にされる。そんなものは綺麗ごとだと一蹴されるか、嘲笑の対象になるかどちらかだ。あれは育った環境もあるのかも知れないけれど、どうも生まれ持った資質の方が大きいような気がする。

例えるなら、私の家族は詐欺集団のようだ。彼らは犯罪を犯しながらでもちゃんと組織がある。そして当然上下関係もあり、トップが一番正しいのだ。「もうこんなことやめましょうよ」なんて言おうもんなら裏切り者のクズ扱いをされる。「使えない」からです。

正しいことが正しくない世界は絶対にある。しかもそんじょそこらに溢れかえっている。結局は水なのだと思う。川の魚は海で生きることはできないし、海の魚は川で生きることはできないのだろう。

私の家族は犯罪を犯すとまではいきませんが、間違った方向へ進んだのは事実だ。私たちは魚ではないから違うものになれる可能性もある。だけど頑なに外の世界に行こうとしなかった。たとえ貧しくても幸せな家庭をつくることも出来たはずなのに。

もちろん私自身も、その中で生きていくしかなかった。裏切り者扱いをされないように、間違った答えを言わないように、詐欺を行うことがごく当たり前で普通の行為なんだと思い込むしかなかったのです。

違うとわかっていてもそこから抜け出すことが出来ない。一緒にいなくても常に監視されているような存在を感じながら生きてきた。この世界こそが正しくて、お前はここでしか生きられないのだと、ここにいるのが一番幸せなのだという呪縛から逃れられなかった。

私は大それた望みは持っていなかったと思う。認めてもらえなくてもいい、褒めてもらえなくてもいい。ただ「あなたはそうなのね」と言ってもらえればそれでよかったのに。

他者の人格を捻じ曲げる行為は、愛さないことよりも罪深い。いや、違うな。愛していないからこそ、そんな事ができるんだ。