新たな問題

シークレットの中に『今の我々は、我々の考えの結果である(釈迦)』という言葉があります。私は最近、この言葉をしみじみと実感している。

なぜ幸せになりたいと願いながら反対の方向へ向かってしまうのか。なぜ上手くいくはずだと確信していたのに上手くいかなくなってしまうのか。他者から植え付けられた認識を自分の思考だと勘違いして、それを元に間違った方を選んでしまうからだと思う。

こんなはずじゃなかった、こんなことは望んでいない。自分が考えて出した結果であったとしても、それは顕在意識レベルの話で、冒頭の言葉は潜在意識の思考を指しているのだから、理想と現実にギャップがあると『感じてしまう』だけなんじゃないだろうか。

自分の人生に責任を持つというのは、自分の思考に責任を持つとも言える。思考は言葉を生み出し、何気なく言った一言が人生を大きく左右することがあるからだ。一般的に思慮深い人は口数が少ない印象ですが、言葉の怖さを知っているからこそなのだろう。

 

私は今困っている。元々私が潜在意識に関わり始めたのは、行く先々で親に似た人に振り回されて悩んでいたから。そして自分の中にある親との関係を何とかしなければいけないと考えたからです。

これまで、幼い頃に親から受けてきた仕打ちがまだ蟠りとして残っている事を自覚し、それを昇華するために頑張ってきたわけですが。今は親の言動そのものは大した問題ではなかったのではないかと思っている。全て私に原因があったのだと。

私と家族は根本的に水が合わない。けれど血や家族という形に拘りすぎたから、「本来こうあるべき」という理想を自分自身と家族に押し付けた結果、こうなったのだと考えています。

気持ちの上で親との問題を昇華できれば、関わる人達を許せて良い関係が築けるのではないかと思っていたのに、振り出しどころか生まれた頃まで遡ってしまった。私は家族が嫌いだ。何というか、以前とは嫌いの種類が違うような気がする。無意識レベルで嫌いなのです。

普通の親はこんな事はしないだろう、子供を愛しているならあんな事は言わないだろう、そんな期待に似た感情など、もうありません。ただ人間として受け付けないのだ。だから、そこから派生した人間関係も同じ位受け付けられなくなって、気持ち悪いとさえ思ってしまう。

思考は言葉に出る。これまで私は言葉から相手の欲するものや心理を読み取ってきた(つもり)のだけど、いつからか相手の思考に目を向けるようになってしまったのです。なので安易に同情もしないし、その思考が好ましくなければ相手に合わせることもない。

生き直すとでもいうのか、子供の頃は怖くて出来なかった事をしているようでもあり、新たな自分になったような複雑な気分。これはこれで違う意味の生きづらさを抱えてしまったような気がしないでもなくて。