不幸の共同体

少し前、「日本は不幸の共同体」というコメントを見ました。本物か似非かはどうでもよくて、とにかく弱者だけをかばうという風潮に対しての言葉だった。弱者を助けることは構わないのだけど、その代償としてそれに乗っかる人が増え続けているのは事実だと思う。

今も一部の地域では差別が根強く残っているけども、利権に群がる人達がいる限り根絶やしにはできないという。つまり、差別だと主張することにより利益を得ようとする。日本は再び過去へ向かっているんだと私は考えています。

 

今月の半ばくらいにあの子に会いに行きました。私が意識の底にIさんを登場させてみると、あの子は無邪気な笑顔を見せた。

私は幼い頃から家族の中に居場所がなかった。家族の考え方が全く理解できず、私は本当に実の子供なんだろうかと本気で悩んだこともあります。しかし残念ながら実子なのは間違いないので、「これが普通」「家族を否定してはいけない」「馴染めない私に問題がある」と自分を偽り続けてきた。

けれど、やっと自分の行きたい所へ行けるようになった。今、家族に対しての思い。私は家族である前に人として大嫌いだ。産んでくれたこと・十数年育ててもらったことをしょっ引いても、もう充分すぎるほどの見返りは与えたと思っている。

以前どこかで、”親に似た人を嫌いになるのは親を許せないから”といった記事を読んだ記憶があります。実際に私も”許せないけど許さなければ”という葛藤の中にいたけれど、親に似た人を嫌いだからといって何の問題があるのか今ではさっぱりわからない。

憎しみはあるけれどわだかまりがないとはどういう状態なのか。一般的な家族に対しての幻想や憧れを捨てきれたのかも知れない。諦めたのでも拗ねているのでもなく「ないものはない」という事実だけを見ている。

現実的には戸籍だけの繋がり(これは今更どうしようもない)、スピ的に見ると魂の成長の為に選ばれた人達。ただそれだけなので嫌いなものは嫌いだし、逆に言えばただその程度の関係にしては仕打ちが酷すぎやしませんかと思うのみ。

外国文化をよく知らないので比べようがないけれど、ここの世間は親を神格化しすぎだと思う。何を根拠に「子供を愛さない親はいない」などとのたまっているのか。

頭の悪い人は短絡的だ。その言葉だけを鵜呑みにし、例え現在人格破綻者でも子を産めば変わるだろうという安易な期待が不幸を産み落とす。現実は子供を愛している気分になっているに過ぎない。そして愛という名の元に自分の行いを正当化することに何の疑問も感じない人がいるのは明白なのに。

蚊帳の外からは何とでも言える。無責任に罪悪感を抱かせるんじゃないよ。

 

今、私は家族と家族に似た人、いわゆる似非弱者を冷静に見つめている。

不幸は楽しいですか?