踏み絵

引き続きマウンティングおばさんの話。あまり親しくない間柄なのに、不幸な身の上話をしてこられた時、私は頭の中でアラートが鳴る。おばさんもそうでした。「この人に近付いてはいけない」とわかっているのに、当時AC全開だった私は下らぬ情けを掛けてしまった。

「あんたなんか」、この言葉はバツイチであるおばさんが、義実家から言われ続けた台詞でもある。ハイスペックな元旦那を自慢(この意味もよくわからないけど)する反面、義実家から受けたという人格攻撃の数々はおばさんを被害者に仕立て上げていた。

おばさんに言われた事は「あんたなんか」だけではなく他にもあるのだけど、それらはおばさん本人から聞いた、『自分が言われて傷付いた言葉』でした。自分が言った事を覚えてないのか、はたまた私の記憶力を舐めているのかはわかりませんが、私はそれに説明しがたいモヤモヤを感じていた。

おばさんにとって結婚生活は屈辱的な日常を耐える日々だったのかも知れない。しかし私は限りなく赤の他人に近い他人だ。友達でもない、知り合い程度の間柄の人間に使う言葉ではないと思う。しかも私はその言葉に値する事をおばさんにした覚えはない。

おばさんも、自分は傷付いたのだから誰かを傷付けてもいいというタイプの人種であった。そして私はモヤモヤを感じつつ、やっぱり私が悪いんだろうなと思考停止してしまったのでした。負の連鎖はこうして起こる。

 

最近、こうした人達の身の上話は踏み絵のようなものだと感じている。昇華できなかった過去への思いは未だに根強く残り、本人もどうにかしたいと思っているのではないか。その方法が他人を使う事しか思い浮かばない場合、利用できる人間を探さなければいけない。その為の踏み絵。

私は親に対する昇華できない思いを昔の恋人にぶつけたけれど、その時ACだという自覚はありませんでした。本当は傷付いていたんだ、辛かったんだと認めてさえいなかったと思う。例え認めていたとしても意識に上っているのはほんの一部で、無意識の記憶は膨大だからあまり差はないような気がする。

だから他人に八つ当たりしたり、慰めてもらったとしても単なる一時しのぎでしかなく、その苦しみから逃れることは難しい。今だから言えますが、そうした行為は更に被害者意識を強める。その行為が結果だとしたら原因を何度も何度も掘り起すことになり、色濃くなっていくからです。

色が濃くなれば当然一時しのぎの回数や要求は増える。一層強くなった被害者意識は他人へ要求することへのハードルを下げる。つまり麻痺していく。こうして要求は無意識の内にエスカレートしていくのではないかと考えている。

エスカレートしたのち、得る物はほとんどありません。原因を昇華することもできず、更に被害者意識は拡大する。それに気付くのは何もかもを失った時かも知れない。今あって当たり前のものは、なくなってからでないと「ある」事がわからないから。

たとえ実体がなくてもかろうじて何かが残ったと感じる人は、被害者のまま人生を終えるのだろうか。私は今、元家族やそれから派生した人達全てに、恨みなどの感情は持っていない。出来ることならそのまま生きて欲しいと思っている。

そして私はそっと足元に差し出された踏み絵を二度と踏まない。