お手手繋いで

被害者意識を持つ人の多くは他人の幸せを許さない。どんな些細な事でも自分の方が優れていると思う事で心の平穏を保とうとする。心配するフリをして言葉巧みに不幸へと誘導し、ちょいちょい罪悪感を植え付けることも忘れない。

もともと罪悪感を抱いていて、且つ他人の軸で生きている人は簡単にこの誘導に従ってしまう。今いる場所が自分にとって幸せなのだと暗示をかけられ、そこから抜け出せば不幸になると思い込まされるからだ。

理不尽な言動も、馬鹿馬鹿しいマウンティングを受け続けるのも、今ある幸せを手放さないための代償だと信じて疑わない。そこにいる事こそが最大の不幸であり、幸せを遠ざける行為だと気付いた時から、幸せが始まるというのに。

 

随分前に問題となって、今や都市伝説と化している『お手手繋いでゴール』という風潮。運動会などで順位を付けると差別になるため、みんなで一斉にゴールしましょうということらしいのですが、その理由が順位の悪い子供が劣等感を持つからなのだと。私は初めてそれを聞いた時にゾッとした。

それならテストだってそうではないか。もっと言えば偏差値もその一種だし、そうなれば学歴すら意味を持たなくなる。反対に勉強は苦手だけれど運動だけは得意な子供がいたらどうなる?唯一の自信である場所を奪われた子供はどうすればいいのか、という矛盾。

被害者意識を強く持つ集団はこの手つなぎゴールと似ている。皆で幸せ(に見せかけた不幸)になりましょうと、もしくは先頭に立って手つなぎゴールを行おうとする誰かが「この方法こそが幸せなんだ」とあたかも英雄のように振舞い、幸せになろうと抜け駆けを企む者を牽制している。

私には今、日本全体がここへ向かっているように見えています。あくまで私から見た世界であって、そうでない人(例えばパリピとか笑)には全く違う世界に見えているのだろうと思いますが。

他人の幸せをちらちら覗いては自身の幸せを願いながら、その一方で他人の幸せは許さない。そこから引き摺り降ろそうとすることへ悪びれもせず、同調圧力によってそれらは更に加速する。そして見事、目的が達成されれば「自己責任」だと一蹴して終わり。だけど自分達の不幸は自己責任ではないという矛盾。

そもそも劣等感は当事者が周囲と比べて「劣っている」と感じた時に生まれる感情である。つまり「劣っている」という事実がなければ決して生まれない。だからこそ事実を最初から無かった事にしようという美しい配慮(笑)なんだろうけども。

けれど「順位が悪いと劣っている」という認識がなければ、そんな配慮すらいらないんだよな。つまりこの場合だと、足の遅い子は劣っているという認識ありきなわけで。劣等感を持つか否かは本人次第なのに、劣っていると決めつける誰かがいる。

最初は不幸だと感じていなくても、何となくそれとなく不幸へと誘われている感しかない。「普通は」「大抵は」「皆が」って。

私は手を繋いでゴールなんかしなくていい。というかそんなものに参加したくない。