赦し(其の二)

改めて『赦し』について。

同業者に”マウンティングおばさん”がいることは何度か書いたと思う。このおばさんには色々と嫌がらせをされたり、暴言を吐かれたりなんかしたことがあります。

友達みたいな女性に、なぜこのおばさんが私に嫌がらせをするのか聞いてみたところ、意外な返事が返ってきたことによって、おばさんへの見方が変わってしまったという経緯があり。

しかしいくら肯定的といえども、彼女の言葉を真に受けているわけではない。それがおばさんの真意かどうかも関係なく、私の「意識」が変化したことが重要なのだ。

少し前、久しぶりにおばさんに会った。おばさんは他人の前だと何故か私と仲が良いフリをする傾向にある。「ほらー、『私たち』って個性が強いからーw」『たち』ってなんだよ。すかさず「やだー。私は違いますよーw 一緒にしないでくださいw」と突っ込んでおいた。

そこは断固として拒否させてもらう。完全なる拒絶。大事なことなのでもう一回。一緒にするんじゃねぇ。おばさんは「えっ?そうなの?私だけー?」と笑っていた。そう、あなただけです。

冗談とはいえ他人の前で拒否られたのですから、おばさんの性格上、以前なら考えられない態度だったのですが。その後も和やかムードで会話は続き、爽やかに解散。私は無駄な揉め事はいらないの。かといって我慢もしたくないの。

どうしてこんな関係になったかというと、おそらく私がおばさんに対して敵意を持っていないからだと思う。怒りや恨みというのは紛れもなく敵意であり、上っ面の言葉では取り繕えない波動を出しているのです。

ワタシ的に『赦し』=『仲良くなる』のとは違う。ましてや好きになるなんてできなくて当たり前。過去の出来事は受け入れるけれど、その人をまるっと受け入れることではないのだ。でも嫌いってわけでもなく、どちらかというと無関心に近いのですね。

怒りや恨みは確実に自分の身を滅ぼします。はっきり言って損です。許せない「誰か」や「なにか」のために自分を傷付けてはいけません。

『許し』は相手のため。『赦し』は自分のため。ってとこか。

自分を傷付けず、且つ相手を許さない術。それが『赦し』なのかもしれないな、と思う今日この頃。