ポイント制

『他人に傷付けられた側の人間が幸せになれないのはなんで?傷付けた側の人間が何もなかったかのようにのうのうと幸せに暮らしているのはなんで?この世に因果応報なんてない』こういうのを目にする度に、私もずっとその理由を考えていた。もう忘れてしまったけど自分もかつては同じ気持ちを抱いていたからだと思う。

だけど実際は全員がそうなるわけではなく、乗り越えて幸せになった人もいる。だけど「自分=世界」だから、自分の事しか見えていない時は「運が良かっただけ」と切り捨ててしまっていた。しかしそれは「自分には未来永劫ないもの」と決定する行為であり、静かに「常識」を作り出す瞬間でもあった。

もちろん今でも完全に消えたわけじゃないです。先日判決が下りた新幹線での事件や老人の暴走事故など、無関係の他人によって引き起こされた痛ましい事件事故に対しては、いくら考えても正しい答えなんてきっと見つからないだろうから謎は謎のままだ。

私が傷付けられたと感じていたのは無関係の他人ではなくて身近にいた関係者なのですが、冒頭の疑問に対する答えは「私が連鎖させた人間だったから」だという結論に行きついた。

例えばAという人間がBを傷付けたとする。Aも元は被害者であったとしても、その後改心したとするとAのカルマは薄くなるのではないかと考えている。たとえBへの謝罪はなくても、他の誰かを幸せにしたり地道に得を積んでいれば相殺されるかも知れないという意味です。

一方でBはAを許せず、延々と被害者の顔をし続けたとしたら。上手く行かないことを全てAの責任にし、他人に八つ当たりをするような行いを重ねていたらAが傷付けた以上の傷を他人に負わせることになる。それって、いつしかAよりも悪行を積んでいることになるのではないだろうかと。

からしてみれば理不尽極まりない話で、「元を辿ればAの責任なのに」と怒るのはごもっともだけど、私は原因探しや善悪の判断をしているのではなくて、因果というものについて考えた持論を述べているのです。いかなる原因があろうと、私の行いは私によってなされたものである以上、自分に返ってくるのは当然といえば当然と言える。

もしもこれが因果の仕組みだとすれば、わざわざ過去を呼び出して怒りのエネルギーをフル充電させるのは自虐行為。心が怒りで満たされていても菩薩のように振舞えるなら問題はないと思うけど、そもそもそんなことが出来る人は怒りの沸点が低いと思うのでそこを目指す意味がない。

自分が反対の位置に立って、ようやくわかったような気がする。今の私ならどんな理由があろうとも八つ当たりなんて絶対に許さないから。例外として無関係の人間に傷付けられたり凶悪犯罪に巻き込まれたとかなら別だけど、ケリをつけられる状態にあるのにそれはしないでおいて、傷付けられたらたまったもんじゃないです。

それって、あれですよね。つまりあなたはそっち側の味方ってことになるんじゃないのって。怖いからなのか、いい顔をしたいのかは知らないけど、少なくともその相手より私を下に見てるってことですよね。そんな人間に同情するか?辛い過去があったから仕方ないねって思えるか?正直どうでもいいよ。

似非弱者も元々は本当の弱者だった可能性もあるけれど、それを利用したときに似非に変わるのだと私は考えている。弱者の立場を利用して自分に有利な方向へ持っていった時、あなたのいう加害者は加害者ではなくなるってことです。そして声を上げることもできない本当の弱者を追いつめているのは似非弱者だとも思っています。

幸せはポイント制。なんでかわからないけど私の中に新たな常識が生まれてしまったので、連鎖させることがとても怖い。怖いから「いまここ」に居続ける。