払拭

世間を騒がせた事件の判決が下ったことによって、久しぶりに私は過去を呼び戻してしまった。全く持って修行が足りない。色々と思うことはあるけれど「全て終わったこと」だと自分に言い聞かせて心を保っている。

 

最近、顧客への挨拶回りに勤しんでいます。メールや電話では頻繁にやり取りしていても、遠方の方とは直接お会いできる機会がどうしても少なくなってしまうから、私にとっては楽しい時期だ。もう何年も同じことを繰り返しているのに、今年はいつもとは違う気持ちで客先へ向かいました。

相手は変われど、顧客という対象への想いは若い頃から変わっていない。顧客は大切。だからこそどこかで「私は嘘をついている」という気持ちを払拭できなかった。仕事と私生活は別で当たり前、違う人間を装うのが普通。確かにそうなのかも知れないけれど、顧客の純粋な笑顔を純粋に受け取れない。

褒め言葉もご厚意にも「私にはそんな価値がありません」と思ってしまう。あなたの仰る”いつも笑顔で元気な(私)さん”は作り物なんだよ、と心の中で呟いてしまう。だけど意識が変わって、やっと自分になれた。私は今、心の底から笑えてますよ。

行く先々で歓迎され、アポを取っていた方の中には数名、わざわざ手土産までご用意して下さった方もいる。「ない」世界ばかり見てきたのはやっぱり自分なんだよね。これまで私は自分なりに関わる人を大切にしてきたつもりだ。しかし「難アリ」の人と顧客とでは、費やした時間と労力や精神力は比べ物にならない。それなのに私はその対価として「病む」という有難迷惑な経験をいただいただけだった。

お金は使わなければ回らないし、回らなければ行き届かない。愛も優しさも同じだ。自分には見返りがなくても与えたくなれば与えればいい。ただし「回せる人」が絶対条件だと今は考えている。自分だけ貰いたい、何が何でも他人には与えない、なんなら奪ってやろうなどと考える人間には与える価値なんてないと思います。

与えないことは果たして悪だろうか。たとえそうであったとしても、それがどうしたというのか。だって少なくとも私は奪わないよ。なぜなら奪いたいほどのものを彼らは持っていないから。

 

この数日、過去を呼び戻してしまった時、私は顧客の笑顔を思い出して今に留まることができた。自分を見て笑顔になってくれる人が沢山いる、その事実にとても救われました。できることなら自分も誰かにとってそういう人でありたい。

昨日珍しく123の数字を何度も目にしたので調べてみたところ、”あなたの目標にとって負担になるものからは距離を置いて、あなたの人生をシンプルにしてください”とのお告げだった。「経済的や時間的な負担になるもの、あなたのエネルギーを奪うものはあなたの進む道には必要ないものです」天使もそう言っている。

もう迷いはありません。