あんたなんか

すっかり忘れていた「どうしてお前なんかが」という父の言葉。自分達のためならいいけれど、私だけが幸せになるのは許さなかった家族。それでも受け入れられたいと願っていた私。完全にどうかしている。そしてそれをずっとずっと引き摺っていたっていう。もう正気の沙汰ではない。

なんだか馬鹿馬鹿しすぎて笑いがこみあげてきます。生まれ変わるってこういう気分なんだろうか。いや違うかな、元に戻るといった方が正しいような気がする。ずっと感じてはいたけど、口に出してはいけない、考えてもいけないと抑圧していたものが現れただけなのか。

少し前にマウンティング女子の事を書きましたが、他にマウンティングおばさんもいる。私が今いる業界の中で割と力を持っているおばさんで、もう引退しなはれと言いたい位の年齢だ。個人の自由なので別にいいのですが、終わった時代にしがみつくのは醜い。

今の業界には女性の営業が少ない故に、おばさんはそれが自慢である。あまり外の世界を見ないのか、昔から女性の営業は存在している事を知らないかのようだ。実際、業界は違えど営業歴だけでいうと私とおばさんは対して差がない。

私が今の業界に入った時、おばさんはとても物わかりの良さそうな顔をして近づいてきた。そして自分は営業の全てを知り尽くしているとでも言いたげに、色んな事を教えてくれました。全く役に立たない知識ばかりだったけども。

私はおばさんに舐められていると感じていた。私が営業をしていたようには見えないからでしょうか。しかしあっさりとこの業界に馴染んでしまった私におばさんは手の平を返した。酔った勢いとはいえ「あんたなんか」と言われた言葉を私は忘れない。

でも、自分が築き上げてきた事や努力して手に入れたものを、きっと守りたいんだろうと思いました。私にもいつかそう思う時が来るかも知れない、そう考えると何も言えずに俯いて、ただ浴びせられる罵声を聞いていた。

私は幼い頃からずっと、この「(私)なんか」という言葉を聞いていた。それはいつしか当たり前になり、やっぱり私はそう言われる人間なんだと受け入れてきたのです。

私達の力関係は当時から変わっていない。けれど時代は変わり、当たり前だけど人も風潮も変わる。たまに顧客を含めて会う機会もあるのだけど、おばさんは昔のように持て囃されることはない。それでも私はおばさんを先輩として立て続けてきました。

でももうやめた。私はおばさんと違ってこの業界に何の未練もありません。生き残るためのパフォーマンス的なおふざけを、顧客の冷めた笑顔と同じ顔をして眺めていた。

私はなんか知らんが顧客には大切にされるので、今まではそれが怖かった。おばさんの視線が怖い。どす黒い感情が流れ込んでくるからだ。「どうしてあんたなんかが」口に出さなくても全身から溢れ出る憎悪を感じる。

しかし、これまで避け続けてきた顧客の贔屓をおばさんの前で受け入れてみました。するとおばさんは怯んだ。顧客は喜び、笑顔で溢れている。なぜあなたの前では笑わないのか。これが答えだ、そう思いながらおばさんを見ていた。

これは先月の出来事で、あれからおばさんはマウンティングしてこない。「あんたなんか」ってなんだ。どうしてもこうしてもないわ。