リミッター

共依存者に物申すのは、ニコイチである自己愛への宣戦布告とも取れる。当然ながら、それは覚悟をしていました。私とのやり取りは大幅に誇張されて伝わっているだろうけど、予想外に自己愛までが退いた形になった。

私はどちらかといえば口下手ですし、基本的に争いが嫌いです。悪く言えば舐められやすいタイプ。けれど言い返せないのではなくて言い返さないようにしているのです。

人間の命には保障がなく、さっき別れた人が突然この世から去ることだってあります。20代後半あたりから、この言葉が「最期の言葉」になってしまうかも知れないという怖さを持ち始めた。「あんなことを言わなければ良かった」と後悔するぐらいなら言わない方がいい。

だけど私は共依存者へのリミッターが完全に振り切れてしまった。彼女に対する怒りや憎悪といった感情を超えてしまったのです。もう人として見られないと言ったほうが近いかも知れない。あの時、怒りに呑み込まれたのは事実だけれど、そうなるまでの過程がある。

自分が後悔するかしないか。もし明日、相手がこの世から去っても私はきっと泣かない。仮に今、相手が目の前で首を括ったとしても止めないし、最期まで冷静に見続けられる自信がある。暴言を吐く寸前の一瞬はそんなことを考えている。

私が相手にとって人格否定に近い暴言を吐くということはそういうことなのです。とても珍しいことですが、こうなってしまっては自分でもどうすることもできません。あれから彼女は私に対して敵意を剥き出しにしていましたが、しばらくすると逃げるようになりました(謎)

 

以前この記事でも書きましたが、仕返しは相手と同じレベルになるかという疑問について。この場合、私はならないと思う。例えば、財布を盗まれたから盗み返すといった場合は自分も窃盗になるのでよろしくない。暴力はまあ程度によるかと。しかし言葉の暴力はどうだろう?

昔の事は知らないが、彼女をはっきりと言葉で拒絶したのはおそらく私が初めてです。これまで彼女は数えきれないほどの暴言を吐いているけれど、自分が言われる事は想定していなかったはずだ。だからこそ今、彼女は私が怖いんだろう。正確には私に「傷付けられる」のを怖れている。

そもそも自己愛にしろ彼女にしろ、傷つくことを極端に恐がる人達です。「攻撃は最大の防御」まさにこれを地でいき、他人に傷付けられる前に傷付けてしまおうという心理が働くのだと思われる。

対する私は、もう彼らに対して怖さがありません。彼らの言葉に幾度となく傷つき、悩んでいた過去の自分はどこへいったのかと思うほどです。「必要のない人間」から発せられる言葉はただの雑音だ。

よく考えてみれば、一般的に他人から良い事をされてお返しするのは当たり前で、悪いこととなれば「やられ損」(言い方はアレだけど)を推奨する意味がわからんのよね。理由もなく他人を傷付ける事と、傷付けられて反撃する事が同じレベルなはずないだろう。

ただ、人は復讐に燃えると醜くなる。それでは彼らと一緒になってしまいます。繰り返しますが私は彼女に怒っているわけではないので、彼女が傷付くのを見て気が晴れるとかそういうのは全くありません。よって復讐心とは少し違う。

人の不幸を喜ぶのと罪悪感は全く異なるものでありながら、他人の感情に入り込むという意味では同じ性質だと考えている。これは自身の感情にすり替える事にもなりかねないので、自分のためによくない。仕返しはあくまでニュートラルな気持ちで行うべきだ。

 

本当にね、世の中には人の痛みがわからない人がいるんです。自分がその立場に立って初めてわかることってあるよね。