無関心

人は変わろうと思えばいつでも変われる。そう実感している今日この頃ですが、変わる時はチャンスやタイミングがあると思う。そしてそれは、一見ツイテないことのように見せかけてやってくる時があります。

私は親から教わった事がほとんどありません(別の意味では大いにありまくりですが)。なので社会に出てからすぐに出会ったソウルメイトのNさんを始めとし、他人から育ててもらって今がある。例えば、お箸の持ち方もその一つです。

私は20歳を過ぎた頃まで握り箸でした。Nさんからもやんわりと直すよう諭されたような気もするけど覚えていない。その後も周囲の大人に窘められましたが、魚も綺麗に食べられるからと、頑として聞き入れなかった。

そしてある日、年上の知人男性と美味しいお店の話で盛り上がり、(冗談で)連れていって欲しいというと、「お箸の持ち方が悪いから恥ずかしくて連れて行けない」と間髪入れずに断られました。私はショックを受けすぎて言葉が出てこなかった。

握り箸でも私自身は困っていないし、誰にも迷惑を掛けていないのに、どうして大人はお箸の持ち方にこだわるのかと食事の度に思っていました。まさか「恥ずかしい」と思われているとは当時の私は考えても見なかったのでした。

次にその男性と会った時、「お箸の持ち方を直したら連れていってくれますか?」と聞き、相手は驚きながらも頷いてくれた。多分半年くらいで直ったと思います。結局そのお店には行ってませんが、その男性に好意を持っていたわけでもないので別に構わなかった。多分、当時の私は意地になっていたんだと思う。

お箸の持ち方というのは、若い頃は笑って済まされる部分もあるけれど、ある年齢を過ぎると世間の見る目が厳しくなる。私の周りだけかも知れませんが、特に接待とかだとすかさず無言のチェックが入ります。お箸ごときで人間性まで見られるのだ。

よく言われるのが「親の躾がなってない」ということ。どんなに優れた営業マンでも、どんなに温かな家庭環境(躾は別として)でも、その瞬間は育ちを疑われる。それが現実だった。逆に毒親育ちでも「ちゃんと育ったように見える」から不思議。

こんなふうに、その時はムカついたり何の意味があるのかと思うことも、後になって「あれはチャンスだったんだ」というのがよくあります。

 

私がこんな昔の出来事を思い出したのは、鬱病の彼と共依存の彼女を見ていて、こうして明暗が分かれるんだと感じたからです。

彼女は不幸の塊なのですが、これまで私を含めた多くの人が彼女を引っ張り上げようとしてきました。その手を彼女が自分で振り払ったのです。先日の一件で、彼女と関わる社員全てが「ほんとにダメなんだな」と見限ることとなりました。

例えこの先、彼女が変わろうとすることがあったとしても、もう誰も手は貸さない。というより、変わらなくても変わったとしても、どっちでもいいのです。「いない方がいい人」から更に進化を遂げた。存在価値がないとかそういった言葉では言い表せない。

鬱病の彼は変わるチャンスを掴んだのだと思う。変わることを待ってくれている人がいる間にタイミングに乗れれば迷いがなくなる。「これで良かったんだ」と信じられるからです。

そうでない場合。他人の軸も失ってしまったら、行き先すら見えなくなる。無関心とはそういうことです。