学び

昨日、母のお使いに行ったついでに自分の買い物をして、冷蔵庫に入れようと一旦自宅に戻ると、もう行く気が失せてしまった。「今日は来れないかもよ」そう言っておいて良かった。夜になり「いつ帰ってくるの?」と母から電話があった。

「今日は行けないから明日行くわ」と言うと「ずっと待ってたのに」という返事。「アンタ、そーゆーとこがおかしいのよ。今日は来れないかもって言ったじゃん。帰るなんて言ってないでしょ。」と言うと「言ってないけど…」と母。けどってなによ。ちなみにこの間には「今までどこに行ってたの?」とか余計な詮索も入る。不毛すぎるやりとり。

 

今日の朝、『内なる存在』が私に授けた言葉は「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」でした。突然の”みつを”

「あぁ、そうだな。そうだよね。」頭ではわかっていたつもりだったのに、私は全く理解できていなかったんだ。「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」そうなのよ、それ以外にないのよ。

私は会社の彼女も、母も、というか、誰のことも幸せにしてあげることはできません。そして私のことも、誰も幸せにはできません。

私はないものを求め、それを得るために潜在意識の世界に足を踏み入れました。当時の願いたちはなんだったのか、今はもうぼんやりとしか思い出せないです。

それらを手に入れようと足掻き、執着を手放せなくて葛藤した日々は決して楽しくありませんでした。苦しくて辛かったです。

彼女も母も、常にその苦しみの中にいる。不幸だから苦しいのではなくて、心がしあわせを選べないから苦しいのだと悟りました。

こればかりは他人がどうすることもできなくて、小手先の願望実現なんてほぼほぼ役に立たないのです。自分がしあわせを決めなければ、しあわせになどなり得ない。

私が味わってきた、あの苦しみの中にいるのだと考えると、「辛いよね」という言葉しか出てきませんでした。

今の私に出来る事といえば、斎藤一人さんの言葉をお借りし、「この人は、いま学んでるんだ」と温かい目で見守ることだけです。