胡坐

月曜日、頼まれていた買い物を持って実家へ行きました。帰り際、「明日はゴミの日だから、頑張って出しに行こうと思うの。」とつぶやく母。これは「じゃあ、明日捨てに行ってあげるよ」待ちの時に使う母の手口である。母を始めとして、私はこれまでどれほどこの手口に乗ってあげただろう。私は「そう。頑張ってね」と言って実家を後にしました。

してあげたくないんじゃなくて、「人にモノを頼むなら頭を下げろ」ってことなんだよね。それから「感謝の気持ちを形にしろ」とも。会社の彼女もそうですが、私は彼女達に何かをして欲しかったわけじゃない。どうして「あなたがいなくても困らないワタシ」が一方的に支え続けなくてはならないのか。それに納得できなくなってしまったのです。

あれから会社の彼女の愚痴も聞かなくなりました。「そう」で終了。私は仕事以外もなんやかんやと忙しいので、彼女のために時間を使いたくないし、生産性のない愚痴を聞く労力も使いたくないです。その代わりに何かを生んでくれるならいいんですけど、その要素もないんで甘えないでもらいたい。

 

話は変わりますが、少し前にこの本を買いました。

この中に「道で仏に会えば、仏を殺せ」という言葉が出てきます。調べると「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、初めて解脱を得ん」という殺仏殺祖(さつぶつさっそ)とも略される臨済禅師の言葉が元のようです。

「何事にも捉われるな。神や仏にすらも執着するな。それを超えた先に悟りがある」とか「過去に学んできたこと、信じてきたことを、すべて手離した先にこそ本当の未来がある」とか「自分を縛るものは全て自分の中で殺せ(手放せ)」とか、解釈は様々ですが、

真実の自己に出逢うためには、自分を惑わせるもの、特に権威をもって自分に迫ってくるものは、たとえそれが仏や祖師、父母や親族であっても、徹底して否定しなければならない

というのが一流の禅僧による正統的な解説だそう。

岡本氏は禅僧たちが集まる催しで講演をした時のエピソードとしてこの言葉を書いており、現実に仏と出逢えるわけでもないのに、果たして実際の働きを持つだろうかと疑問を感じてしまったのです。仏には逢えっこない、ではなにに出逢うのかと問いかけ、「出逢うのは己自身なのです。自分自身に対面する。そうしたら、己を殺せ」とぶっつけたわけです。惚れるわ。

 

私は毎日死にたい。というか瞬間瞬間、生まれ変わりたい。しかし、そんな生き方は一般的な常識の中では受け入れられないと思う。だけどそれでもいいです。私は「変わらないもの」へ胡坐をかき、「変わってしまったもの」へ執着するような生き方はしたくないんだよ。