ウマとかシカとか

土曜日、渦中の二人の会見を途中までリアルタイムで見ていました。倫理観が薄い私は引退するほどではないと以前から思っているので、ただただ大組織に牙を剥いたことに驚いていた。あのシナリオを書いたのは弁護士なんだろうけど、とにかく大博打に勝ったのではないだろうか。

パワハラ問題。私は会見を見ながら、過去の自分ならどんな気持ちでこれを見ていたかと考えたけれど何も思い浮かばなかった。目障りな者は責任まで負わされて排除される。お世話になった会社のためならと、甘んじて受け入れてきたあの頃まで気持ちを巻き戻せない。

パワハラモラハラを行うに至る原因があったのではないか。家庭環境かいじめか、同じくパワハラなどを受けた過去があるのかも知れない。私はここでずっとそんな事ばかりを書いてきたけれど、そんなものは何の理由にもならないと今は思っている。

私はこれからも家族のことを書くだろうが、全ての責任が家族にあるわけではない。あそこに生まれたのは誰のせいでもないし、幼い頃から感じていた違和感を押さえつけて同調してきたのは紛れもない自分だからです。ほぼほぼ自分の責任だと言える。

どうすれば親の呪縛から抜け切れるか、そればかりを考えて生きてきました。そしていつか抜け切れた暁には、この経験を誰かの役に立てることができたら。おこがましくも、そんな気持ちもありました。だけど今の私はACの後遺症に悩む人の気持ちに寄り添えないと思う。

「アナタが変わらなければ何も変わらない」それしか言えないからだ。

これは毒親だけでなく、モラハラパワハラについても同じ。同情やくだらない希望的観測を持たず、「いつか変わってくれるかも」などという期待をさっさと捨てた方がいい。変わらなければいけないのは自分。

切れないのは優しさではなく弱さ。力関係は真逆に見えるが、やはりスピ的に見れば同じ波長が引き合うのは嘘ではないのだろう。相手を通して自分を見ている、つまり強さに見せかけた弱さと共鳴する部分があるからこそ我慢ができるのではないかと思っている。

弱さを捨てるには相当の覚悟が要ります。「相手と同じレベルに立ちたくないから」と言う人達の中には戦うことから逃げているだけの人もいるんじゃないか。体のいい言葉を吐きながら「いつかなにかが変わってくれる」のを待ってるんじゃないか。戦うとは力でやり返したり訴えたりすることだけではない。自分の弱さを捨てることも戦いだ。

 

ちなみに自己愛のパワハラまがいな行為は頻度と激しさこそ減ったものの地味に続いている。一度訴えられて敗訴(当然)しているにもかかわらず。近年のパワハラ問題の加速、そして土曜日の衝撃、それでも平常運転でいられる彼らの心の強さには感服する。

それでいて「皆のために頑張っているのに、どうして自分はわかってもらえないのか」と本気で思っている。私は彼らの中に過去の自分を認めて、恥ずかしさでいっぱいになる時があります。「どうしてわかってもらえないのか?バカだからですよ」と過去の自分に言いたい。