今の願い

私はクリスマス前の2日間、廃人になりながらも「これは揺り戻しかも知れない」と考えていた。私の思考が一気に上昇したため、元に戻そうとする好転反応の事です。株価と同じで過熱して上がり過ぎれば下落する。逆も然り。

こうなってみて、やはり死にたいと思ったあの時期は好転反応だったのだと思っています。一旦底を打ち、反転してからの心境の変化を今止めるわけにはいかない。思考が元に戻らないように、静かに心の嵐が去るのを待つしかないと私は学習した。冷静にそう思えるようになったのは大きな進歩だ。

私がシークレットに出会って2か月が過ぎました。シークレットの中にはハッとするような言葉が度々出てくるのですが、その中でも特に気になった事を文字に起こしてみた。

自分の感じる幸せを他の人にも感じて欲しいと思うことがあります。そして多くの場合思い通りにならず失敗します。なぜでしょうか。自分が生み出した喜びや幸せを受けられるのはたった一人だけ、それは自分です。つまり、例え親・子供・配偶者など最も身近にいる人であっても、あなたが生み出した幸せを生み出すことはできないのです。自分の喜びは自分の中だけにあるのです。 

ここには心当たりがありすぎてグサグサきました。 私は自分だけが幸せになっては、楽しんではいけないという罪悪感がずっと抜けなかった。それは人の顔色を見てチャンスを逃してばかりの過去や、罪悪感を植え付けようとする人達への憎しみを生んだ。だけど問題は私自身にあったのだ。私はずっと誰かにこう言って欲しかったのかも知れない。

今私は自分のためだけに生きている。とはいえ他人を蹴落としたり故意に傷付けているわけではありません。故意に、というのは当人が変わることで人間関係が大きく崩れる事があり、その時に裏切られた気分になったり、傷付いたと感じる人もいるかも知れないからです。

今も全く迷いがないと言えば嘘になりますが、本当にこれでいいのかと自問自答する機会はこれからもずっとやってくるのだと考えている。迷いがなくなることはきっとない。その度に何かを選び、何かを捨てるのが人生なんだと受け入れることにしました。

私は自分の生き方に自信がなかった。子供の頃や学生時代からの友人と変わらない友情を築いている人達と私は大きく異なる。自分が変わる度に入れ替わる人間関係が、自身を欠陥品だと証明しているような気になってしまう。

だけど私はこんな風にしか生きられない。人は魂を成長させる為に生まれてくると言われていますが、産まれた時から決まったレールに乗り、守られて生きている人はその中で成長することができる。そして私はそんな中では成長できない種類の人間だったんだと今は思っています。そこに幸せも不幸もありません。

私にとって幸せとは自分らしく生きること。心の声に逆らって一般的に幸せと言われる何かを手に入れても幸せとは言えないのです。人生は選択の連続だ。そして過去と他人を変えられない私達が唯一自由にできるもの、自分の思考によって選択肢が変わる。

私は世間の常識よりも自分の思考の中で生きていきたい。それが今の願い。