『今』

あれ以来Iさんを思い出すことは日に日に減っていき、「そういえばIさんを思い出していない」と気付いてから意識に登場させるレベルになっている。けれど満たされているのに変わりはありません。少し前の私はIさんの中にいたから満たされていたのですが、その対象が自分へと変化したからです。

私は最初、気分転換のために習い事へ行っていたのだけど途中から目的が変わりました。今の習い事は自分のペースでできるので最中に他人と関わる事は少ない。先生の声は聞いていますが、完全に自分の世界に入り込める。その時『無』になっているとわかった。

頭がからっぽになるという表現が一番近く、瞑想と同じ役割を果たしている。何度かマインドフルネスにも挑戦したけれど、家だとどうしても雑念が湧いてしまうので効果があるのかどうかわからなかった私にとっては思いがけないメリットだ。

今や無になるために通っていると言っても過言ではないほどのめり込んでいますが、その恍惚感の原因は何かと考えてみると『今を感じている』ということなのだと思う。そこには過去も未来もなく今しかない。それがとんでもなく心地良いのです。

そういえば潜在意識系で〈今今メソッド〉という、今この瞬間に焦点を合わせる方法があったなと調べてみると、瞑想と酷似していると書いている方がおられて納得。思考が現実を作るというのはその世界では周知の事実なので「思考を止めましょう」というのと似ている。

私の場合だと、毒親との過去はあくまで過去であって今ここにはその欠片も存在しない。けれど何度も引っ張り出してきては憎んだり怒ったりする行為によって未来の現実を今作っているということになります。今は親に対して何の感情もありませんが、自分が創造していたと腹落ちしたのは大きな収穫です。

常に良いイメージを送り出しなさいというシークレットとは逆行しているようにも見えますが『今』にいると大きな安心感を得られるので、今安心→未来も安心と自動的にこうなるのではないでしょうか。私は今を感じることにより潜在意識と繋がったと感じる時が増え、この正月休みの間に考え方も変わりました。

何度か書いていますが、私は掃除が苦手ながらする事はするのだけど、なぜか最後の一つだけを残しがちな傾向にあった。シンクの中のコップだったり、洗濯後のくつ下だったり、どういうわけか最後までやり切ることが出来ない。そういう病気なのかと本気で考えたこともある。

しかし今は無意識に雑念を手放したくなかったのではないかと思っています。一度認識した事実は見て見ぬふりをしても、無意識に層のように重なっていく。私の頭の中はやり残した何かでいっぱいになっていた。雑念で埋め尽くされていれば現実から逃げられると考えていたのではないだろうかと。

『今』にいると深い充足感を味わえる。そして常にその状態でいたいと思い、視界に余計な物を入れたくないので掃除をするようになりました。今と自分の為だけに『今』生きている。その幸せはいつ失うかも知れない、他人から得られる幸せとは比べ物になりません。

私はIさんに冷めたんじゃないのかも知れない。Iさんより自分への想いの方が大きくなってしまったんだ。