互いの転換期

ようやくゴタゴタが落ち着いたので一気に書いておきます。

私が頑張らないように頑張っていたのは、会社にいる為にそうするしかないと考えていたからです。だけど本当にそうなのか?そもそも、この会社にいる意味はあるのか。

私は自己愛のことを誤解していた。自分が中心でいたいが為、常に他人と関わっていたい人なんだと思っていた。それも事実なのですが、彼は他人の真意を読めないだけではなく、対人面において自分で考えるということが出来ない人でした。

これまで、意味のわからないことで散々暴言を吐かれたり、突然喚き出すという行動が多々見られたのですが、あれはパニックになっていたのです。頭の中で処理が追いついていかないが故の行動だった。

ACの友人にも見られた、自分で考えられないから他人の頭を借りるというパターン。彼はずっと、この致命的な欠陥を必死で隠し続けてきたんだろう。ですが友人のように相談という形をとるのは、彼にとって負けを意味する。

他人を恫喝し、相手からの言葉を引き出す。そうすることで彼はここまで這い上がってきたのだと思う。しかし、それは人を失ったら全てが終わるという可能性も含んでいる。だから大事に出来ないくせに他人に執着するんだ。私が気持ち悪いと感じていた疑惑は確信に変わった。

 

私はつい数か月前まで、心のどこかで自己愛に期待をしていた。人は完璧だから愛されるわけではない。虚勢を張らなくても、争わなくても共存できる世界はあるのではないか。一応心のお勉強をしているからには、もし少しでも気付いてもらえたら全てを水に流そうとも考えていた。

だけど先に変わってしまったのは私の方だった。会社からお給料をもらっている以上、仕事はする。けれど自己愛の脳みその代わりになるのは御免こうむりたい。

随分前に書いたように、人間には得手不得手があります。コミュニケーション能力だけが全てだと言うつもりもない。得意な人が得意な事を取って補い合えればいいという気持ちで働いてきた。でもそれを、さも当然のように考えちゃいかんと思うのです。

 

そう思っていた矢先に、飲み会のきっかけとなった自己愛の嫌がらせが発動した。その時も書いたけれど、私自身はその事に対して何も思っていません。嫌がらせの内にも入らないくらいで、寧ろその状況を楽しむ余裕すらありました。

ですが周囲は、私が思うほど肯定的には取っていなかった。私にとってもそうだったけれど、彼にとっても大きな転換期になったのかも知れない。