頑張らないとは

私が潜在意識系にのめり込んでいた数年前、心屋仁之助氏を知りました。先日載せた本の著者である苫米地氏も潜在意識系では有名な方です。(特に誰推しというわけではなく、いい所だけを取ればいいと考えています)

両者とも「頑張らないこと」を勧めているのですが、頑張らないというのはとても難しい。私は「頑張らない」という言葉の本質を理解できなかったのです。

頑張らないとはなんなのか。仕事を放棄することなのか?そんなことをすれば会社にいられない、生活が立ち行かない、何より周囲に迷惑が掛かる。それなら頑張り続けるしかないじゃないかと思っていた。

人間は好きなことは頑張らなくてもできるようになっているという。潜在意識が勝手に動いてくれるまで好きにならなければいけないのか?それはそれで違う意味の努力を要し、心の負担を増やすだけになってしまう。当時の私は完全に潜在意識難民に陥っていた。

 

私は共存共栄という言葉がとても好きでした。争うことなく共に生き、共に栄える。だから口先だけで物や技術を売り、お金を頂けば知らん顔という営業はできない。会社に対してもそう考えていた。

今の会社は、ある程度の成果を上げながら、ごく一部の人格障害者が劣等感を感じないようペースを落とさなければならない。そして成果は自分のものであってはならないというオマケ付きです。

これまでの経験から、出る杭は打たれるのだと嫌というほど学習している。頑張れば頑張るほど容赦なく叩かれ、最後は折れる。そうしていつしか、出過ぎないよう目立たないようひっそりと努力をするようになった。

それでも自分にはこの生き方が丁度いいんだと言い聞かせていた。意識してそうなったのではないけれど、私は頑張らないように頑張っていたんだと思う。知らず知らずのうちに私もあのゾウのようになっていたのです。

だけど先月あたりから、今更ながら「これは共存共栄か?」という疑問がわいてきた。私は何を得るために頑張っているんだろう。頑張ることも、頑張らないように頑張ることも誰の為の努力なんだろうと考えるようになりました。

そして頑張らないように頑張ることをやめた。