書き換え

去年、自己愛は私から仕事を取り上げ、外部と接触することを阻みました。けれど自身の度重なる失態と、当てにしていた明晰君が思わぬ方向へ向かってしまった事で、しれっと私の所へ戻してきている。

私はもちろん、振り回される周囲の人達も迷惑極まりない。結局こっちが尻拭いをする羽目になっているのだけど、この状況を少し前の自分ならどう感じていたかと考える時があります。

 

感情の赴くままに動く誰かがいて、その誰かの為に負担を強いられる自分がいる。そして私は何かを得るために甘んじて受け入れてきた。私は何が欲しかったのか、今となってはよくわからないけれど「いい子」で居たかったのは間違いありません。

その根元になったあの家族の中で私はどうするべきだったのかというと、ただ放っておけば良かったんだと思う。

例えば5千円の物を買ってもらう為に色々な努力をしたけれど、そんなことをしなくても自分の貯金で買えば良かったのです。そうすれば欲しい物を手に入れることが出来て、無駄な努力をせずに済み、挙句にお金を吸い取られることもなかったんだ。とても簡単な事です。

もう私はそれらについて根に持っていません。あの子が見限ったからです。今のあの子は家族に対して何も求めていないし、ましてや自分を犠牲にしてまで得たい物を相手が持っていないことに気付いた。

私の中は少々複雑です。あの子の欲しい物を私が与え、あの子の変化に伴い今の自分も変わる。これが過去の書き換えというものなのでしょうか。

過去の私があの子にさせてしまった行為は紛れもない事実で変わる事はないけれど、今のあの子は欲しい物を得る事ができるのだから、家族に縋り付く必要がなく、ただ施しを与えているにすぎません。

貰う為に犠牲になるか、与えてあげるか(”くれてやる”の方が近い)では大きな違いがあります。与える側には「与えない」という選択もできるからです。

今の私は与える側で自己愛は与えられる側だ。潮目が変わった。