「冷たい」と責める人

 

共依存と自己愛は他人から必要とされることに依存します。時に必要とする側・される側が入れ替わりますが、静か動かの違いだけで本質は対して変わりません。

共依存は”仕事が出来ないことが多い”と書きましたが、正しくは”仕事をする気がない”のです。努力はしないのに「頼りにされたい」という気持ちだけが先行する。ここが一番厄介で扱いに困る所です。

強い劣等感を持ちつつも怠け者なので、手っ取り早く自尊心を高めるには「人に必要とされること」が最短の道なのだと思います。

しかしそれが叶わない時、いじけたり落ち込んだりして自己愛を取り込む。そして自己愛は共依存をかばい、尤もらしい理由をつけ他人を攻撃する。素晴らしい連携プレー。

彼らにとって「優しい人」とは、下手に出て持ち上げて賞賛してくれ、なおかつ優越感と利益をもたらしてくれる人を指します。そして思い通りにならない人を「冷たい」と責め、罪悪感を与えて意のままにしようとするのです。

 

私は、随分昔から「冷たい」と言われる事と「優しい」と言われる事が極端に分かれていて、その人達の間で板挟みになることが多くありました。

やはり「冷たい」と言われて良い気分にはなりませんし、自己が確立していなかったせいでどちらが正しいのかわからなくなっていたのです。だから、どこかでずっと「優しい人」を演じてきたような気がする。何となくその方がいいように思えたから。

優しい人を演じようとしていた私は、そこにつけこまれたのです。そういう人達を可哀相だと思ったことは一度もないのに。改めて自分が招いた結果なのだと認めざるを得ません。 

 

「優しい人」「いい人」でいることに何の意味があったのか。自分を蔑ろにしてまで欲しかった物は何だったんだろう。

それはまだわからないけど、正当な理由もなく他人を「冷たい」と責める人とは距離を置いた方がいいのは確か。