置き換え

私が自己愛に濡れ衣を着せられた事を知った日、彼の目は泳いでいて、決して私と視線を合わそうとはしなかった。おそらくバツが悪かったのでしょう。だけど私が顔色を変えなかったからか、その日から私に話し掛ける事はなくなり、ただ遠くから様子を窺うだけになりました。

私は母と同様に、自己愛に対しても何の感情もなくなってしまった。故意に無視をするという行為は必ず何らかの感情があるのだと思います。しかし無関心は無視しているのではありません。存在を感じないのです。

今、自己愛は焦っている。DV加害者が次の爆発期に向かってストレスを溜めている、蓄積期と呼ばれる時期なのかも知れない。仮にそうだとして、またパワハラが再開しても私は何も感じないと思う。

 

少し前に「不機嫌な人と関わらなくなった」と書きました。その理由は、幼い頃から家族の機嫌を取り続けた結果、いつしか自分も他人に機嫌を取らせる人間になっていた過去があるからです。

私は他人の機嫌を取るのが得意な方だったけど、知らない内にモヤモヤしたものが澱のように心の中に溜まってゆく。そして怖いのが、自身を空気を読むのが上手いとか場をとりなしているなどと肯定することによって「我慢をしている」と気が付かなくなる事です。

全ての不機嫌な人がそういう訳ではありません。自分でも不機嫌になる理由がわからない人は、普段から人の機嫌を取っているからかも知れない。

これを心理学用語で『置き換え』(防衛機制の一種)と言うそうです。(今日付けのプレジデントオンライン内、”「いい人」ほど会社で使い捨てられる理由”という記事の中で知りました)

 

置き換えでなくても、不機嫌な人は他人の軸で生きている。不機嫌な人がどれだけ他人を傷付けようと威嚇しようと、所詮他人がいなくては自分を支えられない弱い人間なのだと思います。

私はもう、そんな人の為に犠牲にならない。自分の為にも大切な人の為にも、不機嫌な人の機嫌をとってはいけない。