2割の悪意

なぜ仕掛けられた喧嘩を買ってはいけないのかということについて。よく「仕返しは相手と同じ土俵に立つことだ」と言いますが、私は昔からあれが納得できない。

例えばこちらから挨拶をしても相手から返ってこない時、返ってこなくてもこちらからは続けましょうという謎の圧力。それを続けていたら相手の態度が軟化したという美談もあったりするのだけど、そうまでして良好な関係を築こうとする姿勢は必要なのか。

私は「ありがとう」「ごめんなさい」はとても大切だと思っていますが、朝の挨拶には特に重点を置いていません。なのでされなくても構わないし、返ってこなければこっちもしない。挨拶したくない人なんだろうと認識する。

当たり前だけど自己愛は挨拶を返さないし私もしない。しかし自分の立場が悪くなった時だけ向こうから挨拶をしてくる。ということは、彼にとって挨拶をしないことも意図的な行動だといえる。相手によってしたりしなかったりというのも明確な悪意だ。

それでも挨拶をし続ける人達はたまに愚痴をこぼしたりするので、何のためにしているのかと聞くと、口を揃えて「自己愛と同じレベルになりたくないから」と言う。はたしてそれは本心なのか?ただの刷り込みではないのかと思う自分がいる。

社会人の基本だから・上司だから仕方なく。という理由なら納得できるのだけど、その度に朝から嫌な気分にさせられてモヤモヤしても、相手よりレベルが高いということの証なのかという疑問を持っていた。

それと同じく、人を嫌いになってはいけないという風潮もそう。私がずっと生き辛かったのは、「親を好きにならなければいけない」という気持ちがどこかにあったからです。

あの子に会ってから親を許せたかというとその逆で、憎しみだけでいうなら今の方が強い。「ACは親を許さなければ幸せになれない」というのは、私に限っては当てはまらなかった。寧ろ憎み切ることが必要だったのだと思う。

生きていく以上は他人と関わることは避けられません。私は諸悪の根源である親を許そうとし、何の関係もない他人で昇華しようとした。ここが大きな間違いだったんだ。他人や世間は悪くない。

働きアリの法則から人間関係を考えると、自分の事を好きになってくれる人が2割・普通の人が6割・自分の事を嫌いな人が2割という配分になるそうです。つまり下位2割は害のある人間・自分にとって必要のない人だということです。

そして下位2割を大切にすると8割を失いかねない。下位2割と距離を取るだけで8割と幸せな関係が築けるのではないかと考える。どちらに比重をおくかで人生は大きく変わると、今になって痛感しています。

私は理不尽な扱いを”我慢”することが、相手よりレベルが上だとは思えない。向けられた悪意は相手”だけ”に正当に返す方が健全だと思っている。

本当は悪意すら難なく呑み込めるのが理想だけど。