眼施

芸能界に興味のない私でもヤフーのトップには目を通すのですが、藤原紀香さんの発言は度々炎上して話題になることが多いと感じる。

そういった自身への批判について、ご本人は「(略)私いつも思うのは、匿名やからやって人の悪口言ったり書いたりすると、絶対自分に返ってくると思うし、逆にその人に運あげてんねんでって考えるんですよ」と語っている記事を見ました。

私は藤原さんが好きでも嫌いでもないので、諸々の発言にも特に意見はありませんが、この記事にはモヤモヤした。自分にはそんな考え方はできないし、できたとしても口には出せない。なんだか傲慢且つ高飛車に思えてしまったからです。(発言そのものについての感想で藤原さんへの批判の意はありません)

確か今月の初め頃だったと思う、何故だか急にこの言葉が納得できるようになりました。この記事が出たのは4月の上旬だったので、2か月の間に何かが変わったのだろう。

 

”人から何かを言われて傷つくのは、自分がそれを受け入れてしまうから”という考え方があります。私がこの考え方を知ってから長い時間が経つけれど、「だって言われたのは事実だし」「誰だって傷付くし」と、ずっと釈然としないままでした。

前回の記事の中で引用させていただいたコメントには続きがあります。

自己評価が低めの人間は、自己評価を他人に何となく預けていることがある。それでも周囲が普通の人なら平穏に生きていられる。

しかし人格障害者は他人の中の別の他人や他人自身に対する印象を操作して利用して生きていくから、そういう人間は格好の獲物に見える。(省略・抜粋)

自分がどう思われているかを過度に気にする人間は、ある意味で自ら不幸を呼び寄せているとも言えます。

とはいえ、一見批判と取れる中にも相手を思っての発言もあると思うので、必要なものと必要でないものを自分で選んでいかなければなりません。他人の軸で生きる人は、この取捨選択すらもままならないのが現実だ。私が選ぶ人を間違えた原因はここにある。

 

人格障害者の尊大で傲慢な態度は高すぎる自己評価からくるものだと考えている。しかしそれは自己評価の低さの裏返しでしかない。本当は心のどこかでわかっているけれど、絶対に認められないのが障害というものなんだろう。彼らは低すぎるセルフイメージを隠すために日々頑張っているのです。

以前よりは自分の軸で生きていけるようになり自己評価が高くなってきた今、藤原さんの「逆にその人に運をあげている」という言葉にとても共感できるようになりました。

今の私は人格障害者達に「ご苦労様」という気持ちしか湧いてこない。いくら吠えようが喚こうが私自身が受け入れなければ、”受け入れられなかった現実”がブーメランになって彼らに突き刺さる。それは結果的に自己評価を下げることを意味します。

反論もしなければ敵意も見せない。ただ生温かい目で見守っているだけだ。これは仏教にある「眼施(優しい眼差しで人に接する)」という施しだと私は考えている。本来の眼施とは意味合いが変わってくるけれど。とにかく私は徳を積ませていただいていると捉えている。

最近よく思う事。自己評価の低い人間は、(本当の意味で)自己評価の高い人間には絶対に勝てない。そして自己評価の低さを隠している人間は驚くほど脆い。