脱・偽善者

先月Iさんに会った時、私と同じく彼も察しの悪い人を嫌う傾向にあるとわかった。

察しの良し悪しというのは、例えば一度入力をお願いしたら次から勝手に入れてくれる人もいれば、その一度だけで終わる人もいる。もちろん最初から指示しない方が悪いのだし、しないからといって責めるつもりも毛頭ありません。

ただ私は個人的に、察しの良さは性格によるものが大きいと思っている。察しの良い人は気を利かせるという以前に相手に合わせているのです。「この人なら入れておいて欲しいだろう」という気遣いからそうしている。して欲しくなさそうならしないか、先に指示を仰ぐという方法をとるはずです。

動き方や性格を見抜き、的確に相手の望むことだけをする。これらは相手を見ていないと出来ません。その性格が作られたものであったとしても、少なからず他人に対して心を配り、自己犠牲を払っているのです。

自分さえ良ければいいと思う人は他人に心を配ることなどできない。できたとしても、おそらく斜め上をいく結果になると思う。それらはあくまで打算であり、結局自分のことしか考えていないからです。自己中心性で察しの良い人はいない。

私が察しの良い人を好きなのは、あまり言葉が必要ない所でもある。逐一口に出さなくてもしてくれた事を受け取り、返すことができるからです。「ありがとう」の一言で何を指しているのかわかりますし、言葉によるコミュニケーションをとらなくても思いやりの交換ができますから。

私は偽善者だから、これまでいわゆる察しの悪い人も好きになろうとしてきた。だけどIさんを見ていて本当の自分を隠せなくなってしまった。私は透明なコミュニケーションが取れない人が大嫌いだ。

先週の飲み会で集まった人は、ほぼそれができる人達でした。自己主張と自己顕示欲の違い、他者との違いを認め合うことと単なる承認欲求の差、そうしたものを見せつけられた気がした。

私がお酒を飲んだのも久しぶりだけど、外で飲むのはかなり前になります。その時はまだ他人の顔色を見ていて、自分が楽しむより人を楽しませることばかり考えていたような気がする。私が楽しいから周りも楽しい、周りが楽しいから私も楽しいという飲み方を初めて知りました。

自己顕示欲と承認欲求にまみれた人達に気を使い続けてきた過去の自分は本当に馬鹿だったとつくづく思います。

私の嫌う察しの悪い人とは理解力は関係なく、言葉や行動の裏を読めない人です。そして察して欲しがるくせに気が付かない人。家族だったりこれまでの上司だったり。私はもう、そうした人達に焦点を合わせることはないと思う。

そこに幸せを見出すことは出来ないのだから。